日本基督教団 福島教会

公開説教

「ヨセフの涙」 2020/9月号 月報より

創世記45章1~8節
ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、フアラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。(2節、3節) 毎週木曜日に行われている祈祷会で長い間、旧約の創世記の学びを続けてきました。第1章から学び始めています。今年の7月に入って45章まできました。創世記は全部で50章あるのでそろそろ終わりが見えてきたところです。創世記は12章以後に四人の族長と呼ばれる人たちの物語が記されます。すなわちアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの四人です。 いずれの人物も紀元前の人たちです。ヤコブという名前だからと言って主イエスの弟子のヤコブとは時代が違います。1000年以上も前に生きた同じ名前の人物です。これらの人たちはすべてその関係は親子です。族長という言葉は用いていますがそれぞれが家族と言い換えてもよいのです。45章は最後の族長ヨセフ物語のクライマックスの場面と言うことができるでしょう。数奇な歩みをたどりながらエジプトの宰相となったヤコブの子として11番目に生まれたヨセフがまだ子どもだった頃、自分を穴に落として殺そうとした兄たちを赦し和解をする場面です。 「ヨセフは声をあげて泣いたので」(2節)と記されます。これまでもヨセフが涙を流す場面はありました。「ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた」(42章24節)彼らとは自分を殺そうとした兄たちです。ここでは兄の中でも長男のルベンの語る言葉を聞いたヨセフが兄たちから遠ざかって一人で涙を流しています。ヨセフはエジプトの宰相の立場にあるものとして人前で涙を流すことは出来ません。隠れてひとり涙を流しました。もう一つヨセフの涙の場面があります。弟ベニヤミンとの出会いです。「ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた」。(43章30節) ここでもヨセフは「奥の部屋に入って」と記されるように泣いている姿を人に見られないようにしています。ところが45章の兄たちの和解の場面では違います。「声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった」と記されます。ヨセフは今までの兄たちに対する思いを爆発させて人のいる前で大声を出して泣いたのです。 旧約原典のヘブライ語の表現で、「声をあげて泣き」は「声を一切泣くことのなかに投げ込んだ」だそうです。つまり、仮に何らかの壁があったとしてもヨネフの泣く声はすさまじく壁を乗り越えて聞こえてくるほどのものだったのです。このヨセフの涙は長年の兄弟同士の争いからの和解の象徴です。主日礼拝では今、ハイデルベルク信仰問答の一つ一つを取り上げながら聖書の言葉に耳を傾けています。問26では「天地の造り主、全能の父なる神を信ず」との使徒信条の信仰を問いかけています。答えの一部に次の言葉があります。「わたしはこの方により頼んでいますので、(略)また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを信じて疑わないのです」。

「無名であること」 2020/8月号 月報より

創世記11章1~9節
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしょう」と言った。(4節) 我が家の本棚には今までに一度も読まれることなく、売られも処分もされずに今も残されている本があります。しかし、その中にはある機会を通して、急に読むようになった本もあります。その一冊がル=グウィン作、清水眞砂子訳『ゲド戦記』です。ⅠからⅢまでが箱に入っており装丁の立派な本で、子供たちの絵本などと一緒に残されていました。1976年に岩波書店から出版されています。 ある機会とはNHKの「こころの時代」という日曜日の早朝のテレビ番組です。そこに『ゲト戦記』の翻訳をした清水眞砂子さんが出演をして、この本について話をしているのを聞きました。それをきっかけに読むようになったのです。箱に入っている三冊の他に作者のル=グウィンは三冊本を出して何年も過ぎてから続編を三冊出版していて全部で六冊もあります。まだその六冊を全部は読み終えておりません。 『ゲド戦記』の内容については本の箱に次のように記されています。「無数の島々からなる国アースシー、見習い魔法使いの少年ゲドは若さのゆえの驕りから〈影〉を呼び出す禁じられた魔法を使ってしまう。その時からゲドは、形のないもの、名もないもの、闇の王を求める果てのない旅をする運命を引き受けることになる。ゲドの冒険の数々を深い思想と優れた構想力でえがくファンタジー」と書かれていて、小学6年、中学生以上とありました。つまり小学生以上なら読むことのできる長編のファンタジーが『ゲド戦記』ということです。 『ゲド戦記』5は「ドラゴンフライ」の名前の付けられている巻ですが、そこに次の言葉があり心を動かされました。「もし、世界に希望があるとすれば、無名の人たちの中にしか残されていない」この訳は「こころの時代の」番組の中で訳者の清水眞砂子さん自身が英文の原文を引用してそのように訳された言葉であり、深い思想です。本の中では「とるに足りないといわれる人びとのなかにしか、希望は残っていないと思うわ」となっています。とるに足りないよりは無名がよいと思います。なぜなら旧約の創世記11章が記しているバベルの塔の記事との言葉との結びつきが考えられるからです。 バベルの塔を作ろうとした人間は「天まで届く塔のある町を建てて有名になろう」と言いました。有名になろうとする思いの中には必ず驕りが入り込みます。「すごいだろう、悔しかったらやってみろ」との考えがいつでも有名になろうとする人にありおごり高ぶりを生みます。無名なものにはなんの驕りもありません。神は、「塔を建て有名になろう」とする人間をご覧になりどうされたのでしょうか。「下って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(7節)です。「おごれるものは久しからず」と平家物語は語ります。しかし聖書はおごれるものは久しからずではなく、おごれるものは神に裁かれてお互いに言葉が聞き分けられないものになったと言っているのです。バベルの塔の物語はなぜ世界の希望は無名の人たちの中にしか残されていないのかを示していると思われて仕方ないのです。

「まことの信仰」 2020/7月号 月報より

ローマの信徒への手紙第11章20節
そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思いあがってはなりません。むしろ、恐れなさい。 ハイデルベルク信仰問答問20を読みます。問、それでは、アダムを通して、すべての人が堕落したのと同様に、キリストを通してすべての人が救われるのですか。 答え、いいえ。まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。 ハイデルベルク信仰問答は問20から、まことの信仰・使徒信条について記します。使徒信条の問答については、問23から始まり問64まで続きます。このように形で、すなわち真の信仰とは何かの問を立てて使徒信条にはいる信仰問答の進め方は、宗教改革者のカルヴァンの書いた『ジユネーヴ教会信仰問答』と同じです。使徒信条でなくてもよいのですが、教会の歴史の中で特に西方教会では使徒信条が大切にされてきました。 まず、アダムを通しての人類の堕落が示されます。つまり、すべての人が例外なしに罪びとであるとされます。昔、神学生だった頃に通っていた教会に伝道礼拝に招かれた牧師が説教の中で「すべての人が罪びと」であると言ってから、「モハメド・アリもマイク・タイソンも罪びとです」と言っていたのを思い出します。二人ともプロボクシングのヘビー級の世界チャンピオンでした。つまり、その牧師はどんなに無敵のボクサーのような強い 人でも罪びとにすぎないと言いたかったのです。そして、それはその通りです。プロボクシングの世界チャンピオンだけではありません。いわゆる歴史上の聖人君子と呼ばれるような人たちでも罪びとです。だから救いについても同じように誰でも例外なしにすべて救われるのでしょうか、との問いです。 答えは「いいえ」です。そうではないというのです。真の信仰によって、この方と、すなわち仲保者キリストと結び合わされることがなければ救いはないというのです。つまりここで語られているのは万人救済説の否定です。エレベーターに乗っているように何もすることなくすべての人が救われてしまうとの考えがあります。また、聖書も万人救済説に立つという考えもあるでしょう。しかし、ハイデルベルク信仰問答はその立場に立ちません。ここはとても大切です。 ローマの信徒への手紙11章で言われる「あなたは信仰によって立っています」という信仰は、ここでいう仲保者キリストに結びつけられる真の信仰です。しかし、「ユダヤ人は不信仰のために折り取られた」ともいわれます。ここには「あなたは信仰によって立っています」といわれ他方では「ユダヤ人は不信仰のために折り取られた」と言われます。つまり、不信仰と信仰が同時に語られます。不信仰なのはユダヤ人であり、信仰に立っているのは異邦人と考えられます。本来はその逆なのですが、ユダヤ人の不信仰は仲保者キリストと結び合わされることを拒み、自分たちのよき技による救いを手放さなかったからであります。パウロは自分も一人のユダヤ人として同胞の救いを願わなかったはずはないのです。

「神の憐みにより」 2020/6月号 月報より

ローマの信徒への手紙2章1~6節
あるいは、神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。(4節~5節) 今年に入ってから『ハイデルベルク信仰問答』の問答を一つ一つ取り上げて礼拝で説教をしています。今回は問13です。 問 しかし、わたしたちは自分自身で償いをすることができますか。 答 決してできません。それどころか、わたしたちは日ごとにその負債を増し加えています。 『ハイデルベルク信仰問答』は全体が三部構成です。第一部は、人間の悲惨さについて、第二部は、人間の救いについて、第三部は感謝について、となっています。その中で問13は第二部の始まりのところに記されます。人間の救いについて記す第二部の最初の問答は問12から始まります。問12の問答で、すでに償いについて記されていますが償いだけではありません正しい裁きとか刑罰という言葉も問12に記されます。 ただこれらの言葉を用いて聖書が示す救いについて語る『ハイデルベルク信仰問答』は、やはり16世紀の宗教改革以後のヨーロッパの教会が背後にあると言わなければなりません。例えば十字架の救いを刑罰代理とするときの刑罰は日本人として生きる私どもの生活の中で身近ではありません。普通の生活をしているなかで裁判所への出廷が求められるでしょうか。また裁判の原告になったり被告になったりするでしょうか。ほとんどないように思われます。だから判決に基づく刑罰とか刑罰には償いが必要との考えにはなじみがない のです。そういう言葉には関係のない所で生きているからです。 償いという言葉の意味を辞典で調べると、「金品や労力を提供し、または何かの方法で罪やあやまちの埋め合わせをする」と記されています。そして、関連した言葉としてあがなうとか贖罪という言葉も書かれていました。 まさにキリスト教の信仰の中心部分に触れるような事柄が償いの意味の中に隠されています。贖罪などはキリストの十字架の救いにかかわっています。 問13で「自分自身で償いをすることができますか」と問い、答えは「決してできません」とあります。しかし、罪に対する「償い」がなぜ求められるのかが分からないと答えがもう一つ明白になりません。しかし、明白なことがあります。罪の埋め合わせは自分の力ではできないのです。何か他の力を借りねばなりません。キリスト教信仰はそういう立場です。人間の犯した罪を激しく怒っておられる神がおられるわけですから埋め合わせを「自分で出来ますか」と問われます。答えは神に対する償いを自力ではできないということです。それならばどのようにすればできるのでしょうか。 ローマの信徒への手紙には「神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで」と書かれています。つまり、自分の力ではなくすなわち様々な難行苦行をすることによってではなく、上なる神の憐みこそが人間を救う償いとの信仰です。

「ガリラヤのナザレから」 2020/5月号 月報より

マタイによる福音書21章1~11節
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った(10~11節) 教会の暦による棕櫚の主日の礼拝でよく読まれる聖書の箇所です。主イエスが旧約の預言者ゼカリアによって預言されているとおりにロバの子に乗られて都エルサレムに入られた日が棕櫚の主日です。その時に「都中の者が、『いったい、これはどういう人か』と言って騒いだ」と書かれています。人が騒ぐのにはそれなりの理由があります。今は世界中が大騒ぎになっています。新型コロナウイルス感染拡大に伴う大騒ぎです。日本でも地域が限定されているものの「緊急事態宣言」が首相から4月7日に出されました。それにより人々の生活がかなり制限されることになります。外出は控えて家にいるようにと言われています。人が外に出ないので職種によっては店に客が一人も来なくなることもあるでしょう。それでは店がつぶれます。生活が成り立ちません。だから大騒ぎになります。 昨年はじめて訪ねたニューヨーク州を含むアメリカが最も多くの感染者が出ています。ヨーロツパのイタリアやスペインでは多くの死者が出ています。どこの国でも大騒ぎです。それは当然のことでしょう。人の生活でありまた命の問題だからです。 しかし、ここでエルサレムの人たちが騒いだ理由は今のウィルス感染の騒ぎとは異なります。ロバの子に乗られて人々から「ホサナ、ホサナ」(万歳)と言って迎えられた主イエスをすぐ近くに見て「いったい、これはどういう人か」と語り合いそれが騒ぎになりました。ロバの子に乗って自分たちの町にやってきた人をどのように考えたらよいのかで騒いだのです。 それに対して群衆が答えています。「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」。この答えは騒ぎを鎮めるために有効な答えになっているでしょうか。そうではありません。なぜでしょうか。見当違いな答えだからです。主イエスは預言者ではなく救い主です。預言者とは何かはしばらくおくとして、ここではガリラヤのナザレからに注目します。預言者は誤解であるとしてもガリラヤから出たには意味が隠されていると思われます。ガリラヤとはどのようなところでしょうか。地理的なことで言えばユダヤの国の北のはずれです。イザヤ書8章23節では「異邦人のガリラヤ」と言われています。 つまりユダヤ人からすれば無割礼の者である異邦人が多く住んでいる北端の地域がガリラヤなのです。そこはどのようなところでしょうか。北イスラエル王国がアッシリアに敗北した時にはガリラヤから住民がアッシリアに捕囚になりました。そして住民の混血が起こったのはサマリアと同様です。そんなわけでガリラヤは当時のユダヤの人たちからさげすまれていました。そのように人々からさげすまれた場所から主イエスが出られたのです。驚くべきことです。そのガリラヤから都のエルサレムへ弟子たちとともに向かわれ、今、ロバの子にのり、さらに十字架へと向かう救い主として人々が「この方はどういう人か」と騒ぐエルサレムの町に入っていくのです。 

「偉さとは何か」 2020/4月号 月報より

ルカによる福音書22章24~30節
あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若いもののようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。(26節~27節) ルカ福音書22章24節以下には、一番偉い者はどのような人であるかについて主イエスの考え方が示されます。つい最近の新聞の投書欄の記事で「偉い人は遠い人のこと」というような文章を読みました。その人にとって偉い人とは市会議員とか県会議員のような政治家のことのようです。ところがある機会に議員の方に会う時があり、話をしてみたところ偉い人が遠い人でなく近い人になった、というのです。「偉さとは何か」についての面白い話と思い記憶に残りました。 「偉さとは何か」人それぞれに多様な考え方があることでしょう。新聞の投書欄に示されるのも一つの偉さの考えです。主イエスの弟子の場合も多様です。だから「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」と書かれています。弟子たちが口角泡を飛ばすようにして議論をしている姿が目に浮かびます。口語訳では「争論」と訳されていましたが、口角泡を飛ばすだけでなく議論する相手につかみかかろうとするような気持ちも弟子たちの中にあったのです。また、英語のある訳では「嫉妬の論争」となっています。面白いと思います。主イエスの弟子たちの中に嫉妬心があったというのです。弟子たちなのだから世俗的な考え方にならないとは言えません。真理の探究を目的とする学者の世界ほど嫉妬に支配されているところはない、との意見も同じことです。学者も十分に世俗的です。 さて、次に考えたいのはここで主イエスが食事の中で席に着く人と給仕する人の例をあげて偉さについて教えておられることです。ルカ福音書の場合は、この話のすぐ前に書かれているのは過ぎ越しの食事です。この食事は主イエスと弟子たちにとって最後の晩餐になりました。そしてルカ福音書ではその最後の晩餐において聖餐が制定されたと記されます。毎月一回守られる聖餐式において最初に「制定語を朗読します」といって読んでいる箇所はここなのです。そして、その翌日は金曜日であり主イエスが十字架で亡くなられることになります。したがって、ここでなぜ食事のことが例に出されるのか、その理由は今まさに食事の場に弟子たちが臨んでいるからです。また、偉さとの関連で言えば偉さとは食事の席に着いている人でなく、その食事のために給仕をしている人なのだと言われます。これは世間の常識とは正反対です。給仕をしている人は偉くはありません。華やかな衣装を身にまとい晩さん会の席についている人たちが偉い人たちに違いありません。 しかし、主イエスの考えは違います。給仕する人が偉いのです。ヨハネ福音書13章には洗足の記事が記されます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも足を洗いあわなければならない」。主イエスが教えられる偉さは弟子たちが互いに足を洗いあい、食事の席では給仕をする人間になることなのです。主イエスはその道を歩まれたのです。

「頭に香油を注ぎ」 2020/3月号 月報より

マタイによる福音書26章6~13節
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った壺をもって近寄り、食事の席についておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人に施すことができたのに」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。云々」(6節~10節) 今年は、2月26日が灰の水曜日にあたり、その日からレント(受難節)に入ります。イースターは4月12日です。この季節は主イエスの受難に心を向けるときです。マタイ福音書26章に記されている一人の女が高価な香油を主イエスの頭に注ぎかける話は棕櫚の主日から始まる受難週に起こった出来事として知られています。毎年、レントの季節が来るたび教会で読まれてきたみ言葉です。なぜでしょうか。この一人の女の示した行為の中に主イエスの受難の意味が深く語られているからではないでしょうか。 この女のしたことを見ていた主イエスの弟子たちの言葉に注目します。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人に施すことができたのに」。たしかに、この女のしたことは無駄遣いとも考えられます。きわめて高価な香油を頭に注ぎかけたからです。高価なものでなかったならば弟子たちの反応も違ったかもしれません。「高価なものを無駄にしてもったいないことをしている」との思いは弟子たちでなくとも世の中の人の誰しもが持つ思いです。高価な茶器をそれと知らない子どもが落として壊してしまいもったいないことをした、と全く同じです。高価な茶器を売ってお金に換えて貧しい人のために使えばよかったとの考えも同じです。貧しい人のために施すことは立派なことかもしれませんが、それで貧しい人に対する愛が示されるとは思えません。なぜでしょうか。そこにはその人の生き方がかかっていないからです。ただ外側に立って人のしたことを評価して無駄とか無駄でない仕方はこうするべきとか言っているにすぎません。 「無駄」を「愚か」と置き換えてみるとパウロの手紙の、コリントへの信徒への手紙一の第1章18節以下が思い浮かびます。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です。(略)世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで、神は宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうと、お考えになったのです。」ここには愚かという言葉が繰り返し記されます。要するに主イエスの十字架は愚かなことだとパウロは言うのです。それだけではありません。神は宣教という愚かな手段を用いられるといいます。また、宣教の愚かさは十字架の意義にかなうというのです。主イエスの担われた十字架は、ここで名前さえ記されていない一人の女が主イエスに対してしたなした頭に高価な香油を注ぎかけることに示されます。そして弟子たちにからは無駄と言われた行為の中にもっともよく主の十字架があらわされているのです。なぜ、この箇所がレントの季節に読まれるのか、その理由がおわかりいただけたでしょぅか。

「唯一の慰め」 2020/2月号 月報より

コリントの信徒への手紙二・1章3~7節
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(4節) 教会の集会として主日礼拝後に開かれる教理を学ぶ会で取り上げているのは『ハイデルベルク信仰問答』です。かって在任した教会の求道者会などで読み通したことがあります。しかし、今回は主日の礼拝の説教で『ハイデルベルク信仰問答』の問答と関連付けながら聖書の箇所を選びます。このような形で説教するのは初めてです。問答は全部で129あります。それを52回の主日に割り当てています。1回の主日には問が1つの場合もあれば4つの場合もあります。平均すると2つぐらいでしょう。 さて、この信仰問答をとくに有名なものにしているのは問1です。次のような問です。 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 答え。わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。 この信仰問答は、唯一の慰めを問う事からはじめます。しかも、生きるにも死ぬにも、です。人生は生きている時と死ぬ時しかありません。生けるしかばねという言葉がありますが生きていても心が死んでいるたとえでしょう。それでも生きていることに違いはありません。そこで考えたいのは、そのように時として生けるしかばねのような心になる人生の中に慰めなどあるのか、です。 いま2006年に起きた神奈川県相模原市の津久井やまゆり園の45人の殺傷事件の初公判が始まっています。裁判では被害者が匿名で甲とか乙と呼ばれます。人権のことがやかましく言われているこの時代に人間を甲とか乙と呼ぶのはどうなのかと思うのですが、名前を明らかにすると関係者の誰かに危害が加えられないとも限らないとの裁判所の判断が優先されて人間が甲や乙になっています。そのような事件に巻き込まれた被害者に対する配慮が求められる時代なのです。また、そのような中に置かれた人にも慰めがあるのかが問われます。やまゆり園の入所者を殺傷した被告人の抱いていた考え方は恐ろしいものです。世の中には意思の疎通のできない障害を持つ人間がおり、このような人間が生きているのは無駄だから、自分が社会正義を実現するためにあえて殺してあげたとの考えです。作家の辺見庸が小説の「月」を書いて、この事件を題材にしました。園の入所者の一人を「きーちゃん」という名前で呼び、その心のありようを内側から描きます。「きーちゃん」は目が見えず歩けず言葉を話せません。しかし自由にものを考えことができます。障碍者の命も神から与えられているものだからではないでしょうか。裁判の被告人にはそれは全く見えません。尺度は役に立つか立たないかだけです。役に立たないものはいらないと考えるからこのような恐ろしい事件が起こりました。そのような間違った考えのもと理不尽に命を奪われてしまうことがあつたとしてもその人の人生がいつでもキリストのものであることに変わりはないのです。

「ザカリアの預言」 2020/1月号 月報より

ルカによる福音書1章67~79節
これは我らの神の憐みの心による。この憐みによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、われらの歩みを平和の道に導く。 (78~79節) 今年のクリスマス礼拝は、12月22日になりました。その日はちょうど今年の冬至と重なります。実は、クリスマスが12月25日に守られるようになったことと冬至の日とは深い関係があるといわれています。キリスト教が国家の宗教となった4世紀初頭のローマ帝国において12月25日は、太陽礼拝をするミトラ教の祝祭の日だったのです。つまり、この日はキリストの誕生日などではなく、異教のミトラ教徒たちの祝祭日でした。ミトラ教では、この日を境にして夜の長さよりも昼の長さのほうが長くなることを覚えることとともに、新しい太陽の誕生が考えられていました。その日は特別に大切な日だったのです。太陽の誕生日として冬至祭りが祝われていたのも当然と言わねばなりません。しかし、4世紀にローマ帝国の国教となったキリスト教徒たちは、太陽の誕生を祝ったのではなく、太陽を創造した神への信仰を持ちながら、さらにキリストの誕生日とを結びつけて12月25日の異教徒の冬至祭りをクリスマスとしたといわれます。歴史的にはキリストの誕生日はいつかわかりません。また年についてもわからないのです。 さて、洗礼者ヨハネの父ザカリアが、ザカリアの賛歌と呼ばれる歌を歌っているのがこの箇所です。ザカリアは「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と言っています。「あけぼのの光」は文語訳では「あしたの光」となっていました。その影響を受けてか54年版の讃美歌109番では3番の歌詞で「めぐみのみ代の、あしたのひかり」となっています。新しい讃美歌21では「あたらしき代の、あしたのひかり」となっていて「あしたのひかり」については変更をしていません。興味深いことと思われます。クリスマスの歌として一番よく歌われる「きよしこの夜」の歌詞です。ここで「あしたの光」といってザカリアは冬至以後に力を増す太陽の賛歌を歌ったのでしょうか。そうではありません。「あしたの光」とは、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」光です。そして「われらの歩みを平和の道に導く」光です。それは、ザカリアにとっては、これから生まれてくる自分の子供のヨハネのことであり、さらにはヨハネの将来の働きことでもあるでしょう。ヨハネこそ「暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」光でした。 しかし、それだけのことでしょうか。もっとさらに先のことを見つめてザカリアは語っています。それは、ヨハネの後にくるキリストの誕生の預言の言葉として読めます。讃美歌21の255番はクリスマスの歌です。3番の歌詞は「とこしえの光、暗き世を照らし、闇に住む民の、上に輝けり。陰府のちから、やぶるため、み子はきたりたもう」。あしたの光は、とこしえ光です。それは讃美歌が歌うようにみ子キリストのことです。キリストの誕生は、闇に住む民の上に、あしたの光であり、とこしえの光でもある方が来てくださった出来事なのです。

「真実を語る」 2019/12月号 月報より

出エジプト記20章16節 『隣人に関して偽証してはならない。』
 主日礼拝で旧約の十戒の文言をこのところ毎週のように学んできました。十戒の言葉は、主の祈り、使徒信条とともに三要文と呼ばれており教会の中で大切にされてきました。しかし、どうでしょうか。主の祈りや使徒信条と比較すると、それほど教会の中で大切にされているとは思えません。礼拝の式次第を考えてもそのように思えます。十戒は礼拝の中であまり用いられません。なぜでしょうか。言葉の持っている印象があるように思えます。  まず「戒」という言葉に抵抗があると言われる方に出会います。「戒」は戒める意味を持ちます。宗教は戒律ではなく、自由なものであり戒律を守ることには無関係のものであると誰しもが思うところです。すると十戒の言葉の内容に入る前に、すでに「戒」という言葉につまずいてしまいます。とても残念です。元の言葉には「戒」の意味はありません。十の言葉という意味です。十の言葉は聖書の語る自由への道標です。戒律と理解すべきではありません。  さて、十戒の九戒は偽証について語ります。「偽証してはならない」というのです。法律に偽証罪があります。裁判の席で証人が故意に嘘の証言をした場合には偽証罪が適応されます。しかし、私どもが普通に生活している中で裁判所に出頭する機会はありません。そうすると九戒の言葉は日常生活とはかけ離れた裁判でのみ通用する言葉になります。この点について私どもの教会の教理を学ぶ会で取り上げている『ハイデルベルク信仰問答』は偽証という言葉をかなり広い意味に理解しています。問112です。そこでは蔭口や中傷や誰かを調べもせず軽率に断罪するようなことは偽証にあたると記されています。ただ裁判所における偽証罪が偽証であるだけではなく、人間の日常の生活のどこにでもあるような蔭口やいわゆる誹謗中傷なども偽証に当たると言うのです。この解釈には襟を正される思いがいたします。なぜなら蔭口や人を中傷することなど日常の生活でいくらでもあるからです。表面的に人をおだてる人は裏で何をいっているか分からないとはよく言われます。そのとおりではないでしょうか。  エフェソの信徒への手紙4章25節には「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」。隣人に対して偽証をしないことは、隣人に対して真実を語ることに他なりません。それはどのような場合であっても真実だけを語ることです。たとえ自分立場が不利になるようなことがあっても真実を語ることが求められています。偽証をしない道を歩み続けるためです。マタイ福音書が記す受難物語のなかで偽証のことが記されます。26章59節以下のところです。祭司長たちが主イエスを死刑にしようと思い不利な偽証をもとめた時に、偽証人は何人も現れたが証拠は得られなかったと言うのです。偽証について考えるならば主イエスが人々の偽証の中を十字架への道を歩まれ、また、十字架の死を通して語られる言葉があることを覚えたいものです。その言葉は主イエスが今もわたしども一人一人に聖霊なる神と共にご自身を示しておられる十字架の言葉なのです。

「安息日を心に留め」 2019/10月号 月報より

出エジプト記20章8~11節 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(8節~11節)
 十戒の第四戒は安息日について記します。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(口語訳)で長いこと覚えていました。しかし、新共同訳では「聖別せよ」となっています。つまり「聖別」には聖とするだけでなく、この日は他の日とは違う日として分かつと言う意味が込められています。この点は大切です。私ども日本人の普段の生活の中で特別の日として休む日と言えば正月とお盆だけであってあとはひたすら休むこともなく働き続けることがあたりまえということもあるでしょう。
  しかし、旧約の十戒ではそのようには考えないのです。安息日は一週間ごとに巡ってくる安息の日であって、この日にはいかなる仕事もしてはならないと言われます。そして、その理由は何かといえば、その日は神が天地創造のみわざを六日間でなされ、七日目には安息をされたからであるというのです。聖書では安息日は人間が六日間も働き続けて疲れたのでその疲れを取るために七日目に休む必要があるのから休日として国家が考え出したものではありません。神が七日目にはご自身の仕事としての天地創造の御業を休まれたからです。神の安息こそが人間が安息をすることの根拠なのです。 
  旧約の創世記の第二章には、次のように記されています。「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2節~3節)
  ここでは神は第七の日、すなわち安息日を祝福しています。なぜでしょうか。神はその日に天地創造の仕事をすべて完成させたからです。神はもう何もすることがなくなったのです。だからその日には休みを取られその日を完成の日として祝福されているのです。私どもとは何という違いでしょうか。神の安息は完成としての休みです。ところが私ども人間のする仕事には完成はありません。どんな仕事も永遠の未完成であります。自分の生涯をかけてしてきた仕事を一つも完成することなく召されていくのが人間だと思います。教会の務めとしての伝道も牧会についても完成などあるはずがありません。だからこそ、神の仕事の完成の時としての七日目の安息の日には教会で礼拝を守るのです。礼拝で神の言葉に耳を傾けながら聖礼典にあづかり、神の完成としての安息にあずかることが出来るようにと祈り、また神の祝福を受けることが出来るようにとの思いをもって集まるのです。出エジプト記第5章にはエジプトの王ファラオのもとに出向いた時のモーセの言葉が記されています。「私の民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせてなさい」(1節)荒れ野で祭りをとは、荒れ野のような場所で礼拝することをモーセはファラオに願い出たのです。