日本基督教団 福島教会

牧師室より

2024/4月号 月報より

 この原稿を書いているのは3月9日であり、間もなく3月11日を迎えようとしているので、私にとっての2011年のその日のことを振り返ってみようと思う。ただ、思い返そうとしても記憶が飛んでいるところも多い。
 震災の半年前に、24年牧会した郡山教会から筑波学園教会への転任が決まり、引っ越し準備に余念が無い時であった。新たに着任される牧師夫妻に、大正年間に建てられた由緒ある牧師館(福島教会の旧会堂を設計したヴォーリズによるもの)をできるだけ綺麗な状態でお渡ししたいと、時間があれば塗装をしたり割れ目にパテを埋めたりしていた。
 3月11日は金曜日で、すぐ近くのカトリック教会で1週間遅れの世界祈禱日礼拝が守られ、すぐに郡山教会に帰ってきて、『世界食料デー』という超教派の集まりの実行委員会の準備をしていた時だった。牧師館にいたが、尋常ではない揺れが襲ってきて、思わず外に飛び出した。牧師館の屋根からはものすごい量の屋根瓦が落ちてきており、頭に当たらなかったのが幸いだった。
 2004年に建てたばかりの会堂はびくともしていなかったが、牧師館の甚大な被害は徐々に明らかになった。二日後の日曜日に教会員の方々と屋根裏に上がってみると、暖炉がすべて崩落いることが分かった。暖炉内部は土管が4本組み合わされて連結され、その周囲をコンクリートとレンガがガッチリと覆っていたが、それが牧師館一階から屋根裏までを貫いて、大黒柱の役目を果たしていたらしかった。それが全て崩落したため、牧師館は芯柱を失ってわずかな風にもふわふわと揺れるようになった。地下室から大きな石を何段にも積み上げて築かれた土台も45度位回転してしまい、結局は立ち入りが禁止される『大規模半壊』の認定を受けた。そこで、妻・長女・次女の3人は礼拝堂の母子室で、私は使われなくなっていた小部屋で寝起きをすることになった。 
 そうこうしているうちに、原発事故が起き放射能漏れが報じられ、長女と次女は新潟で学生をしていた長男に迎えにきてもらい避難させた。私たちにも避難を呼び掛ける声があったが、3月20日の礼拝後に私たちの送別会が予定されており、それが終わるまでは何があっても留まろうと意を決した。そのような状況にもかかわらず、送別会には沢山の方々が出席してくださりありがたかった。
 浪江在住のGさんと自宅近くのダムが決壊したOさんを除くと、安否にそれほど心配な方はおらず、以降の私の心配事はいかにして着任される牧師夫妻の住まいを見つけるかということになった。恐らく相当な放射線をあびただろうと思うが、自転車であちこちの不動産屋を巡り、やっと教会近くの賃貸マンションを契約することができた。
 依頼済みだった引っ越し業者には全く連絡がつかず、急遽懇意にしていた便利屋さんにお願いをして、無牧だった筑波学園教会の牧師館に愛犬と共に3月22日頃に引っ越した。つくばで長女・次女と落ち合うことができた。3月30日の最後の礼拝は、筑波から高速バスを乗り継いで郡山にやってきた。
 その前日に郡山に住んでいた父母の家に泊まったが、頼りにしていた息子一家と別れるのは両親にとってはさぞかし辛かったろうと思う。特に父は認知症がひどくなりつつある時だった。教会員の方々の同様だったに違いない。今から思えば、つくばへの着任を遅らせることだってできたのかもしれない。何と薄情な息子であり牧師だと、両親も郡山教会の方々も感じておられるに違いない。
 福島に戻りたいとずっと思っていたのは、あの時の申し訳なさもあったのではないかと感じている。

2024/3月号 月報より

 毎週木曜日に、皆で聖書を学び祈るときを持っている。先日そこで与えられたのは、旧約聖書『詩編』131篇の御言葉だった。その1節にこうある。「主よ・・・わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ・・・ことを追い求めません」と。そうすることが、この詩を歌った人の魂を安らがせたとある。
 この詩編は、「都に上る歌」として、おそらくは巡礼の旅すがら歌い継がれたものである。長く人々の心を捕らえてきたものだ。だからこそ実感が伴っているとしみじみ思う。もし私たちの心がざわざわと騒いでいるとすれば、それは大き過ぎることや手の届かないことを追い求めているせいではなかろうか。手の届かないことがあって良いのである。手の届くところで与えられている、小さなことに関わってゆけばよいではないか。
 そういうことならば、沢山与えられているのだと思う。そんなことのひとつとして示されたのが、3月の第4土曜日より、『fun  café  キッチン子ども食堂』という団体が当教会の集会室やロビー・和室を借りて、毎月1回子ども食堂を開催するという事だ。
 昨年の赴任早々、教会員のKさんという方の紹介で、その方が関わっている『福島市子ども食堂ネット』を主宰しているEさんとお知り合いになった。今回のお話はそのEさんを通してのことだった。
 上記の団体(fun  cafe)が現在使用している場所(市立図書館の近く)は年度末で利用できなくなるため、同じ地域で会場を提供してくれる所がないかとの相談を受け、Eさんは早速私共を代表者に紹介なさったのだった。幸い月の一度の利用ということであり、教会活動にも大きな負担にはならないので、教会の長老さんたちも賛成してくださった。
活動の内容は、現在はコロナのこともあってまだ皆で食事をとることはしていないが、いただいた食材を配布したり、1月には牛丼の寄付があったのでそれをお配りしたとのことだった。キッズカフェや無料のバザー、ゲームコーナーなどを設けている。代表者の方々が、看護師さんとケースワーカーなので、そうした相談活動も随時行っているようである。いずれは皆で食事を取ることも始めてゆきたいとのことであり、子育てで忙しい女性の皆さんが、ほっとくつろげる場にもなればよいとも願っておられる。
宗教への理解を得るのがなかなか難しいこの時代に、向こうから教会を使いたいとの申し出があったのだ。こうしたことが、別に無理やり手を届かないところに延ばさなくとも、与えられてゆくものなのである。
 昨年の11月には、プレアドベントコンサートとして、私が評議員をしている宮城学院の音楽科学生さんによって、教会での演奏会が実施できた。新しい年度には、私と妻が入っている合唱団の指揮者が、地元の大学の混声合唱団の指導をしておられる関係で、その団体の歌声を会堂で披露していただく機会が持てるかも知れない。会員の中には他にも、合唱団に属してる方がおられる。このたび練習会場として提供するが、許されればぜひ歌声を聞かせていただきたいものである。
24年間仕えていた郡山教会でも、前任地のつくばでも、手の届くところに無理せずとも自ずと与えられる機会が沢山あった。礼拝堂は、礼拝に集う方々の喜びの香りが漂よっている場所である。そこに足を踏み入れる方がひとりでも多くあり、礼拝堂に残る『残り香』に触れてほしいと願う。だから、できるだけの機会を設けて、幾人かでも礼拝堂を訪れて下さる方を起こしたいのである。

2024/2月号 月報より

 新年早々と言えば、もっと書くべきことが勿論あるが、それはまだ文章としてまとめることができないので、卑近ながらぎっくり腰になってしまったことを書こう。昨年の今頃に引き続いて、2年連続のことである。
 1月7日の礼拝の朝、いつものようにちり取りとホウキでお掃除をしている最中に、キクッとなった。その時はそれほどでもなかったのだが、礼拝前に牧師室にあるゴミ袋のごみを中腰になってぐっと中に押し込んだのがよくなかった。
 ぎっくり腰で何より辛いのは、横になった後で体を起こすことである。特に長い間就寝した後の朝、起床する際がことのほか難儀なのである。自分の体の重さをこれほど辛いと感じることはない。悲鳴をあげ、もう泣きたいと思う位である。椅子に座って仕事することもできなくなり、ずっと「立ってなさい」状態となる。
 昨年も書いたことだが、何日かは靴下をはくこともできなくなる。だから妻にはかせてもらう。それにつけても実感として迫ってくるのは、もしも一人暮らしになってこういう状態になったらどうしたらよいかである。
 ここで、次女が残してくれた竹刀の出番となる。杖がわりである。またここでも実感するのは、支えがあることの有り難さである。自分一人では何十キロもある体を支えることができない。だから杖や自分の外にある者によって支えてもらう。自分の外にある存在によってこそ支えられる。これが信仰というものではないだろうか。
 火曜日の午後に鍼とマッサージの治療を受けたが、ちょうどそれが終わった時携帯電話に福島荒井教会のNさんが召されたとの連絡がご夫人から入った。1月6日の荒井教会での礼拝の際、召されるのも間近ではないかとのお手紙を夫人からいただいていた。しかし、ぎっくり腰になった直後とは予想もしていなかった。何とか車を自分で運転し、ご自宅にうかがった。枕べの祈りをささげ、葬儀の打ち合わせをするのである。
 日曜日の説教準備と併せて、はたしてこの状態で前夜式・葬儀の式辞の備えができるだろうかと心配だった。すべてのデスクワークは立って成し、食事すら立ちながらである。睡眠も寝返りが辛くなかなか十分に取れない。だから、神様助けてくださいとただただ祈るばかりである。
 しかしそうやって、何とか前夜式・葬儀を終えることができた。Nさんの生涯を思い、65年の人生を導いてくださった神様を讃えることができたのではないか。それにつけても不思議だったのは、前夜式を終えて家に帰ってみると、なぜか腰の調子が良いのである。アドレナリンが体中に回っているせいなのか、それとも参列者の方々にご挨拶をすることがリハビリになっているのか。教会員で専門家にお聞きしたところ、まさにお辞儀をするのは腰のために良いのだそうである。
 Nさんは21年の春に難治性のガンであることがわかり、医師から余命3ヵ月を告げられた。しかし医師の見立てに反して、その後3度ものクリスマスを迎えることができた。普通なら希望を失って生きる気力をなくしてしまって当然なのに、彼は変わることなく幼稚園や学童保育の仕事に携わった。そうさせたのは他でもない信仰だったとしみじみ思う。
 先にも書いたが、ぎっくり腰にせよ死に直面した時にせよ、私たちには自分の外に支えとなる何かがなければならないのである。それがないのは、どれほど辛いかを実感する。能登半島地震で被災された方々にも、外に頼る存在がなければ到底やってゆけない。そんな私たちなのである。

2024/1月号 月報より

 10月18日に郡山で姉一家と暮らしている母は満97歳になったのだが、誕生日を迎えた後すぐに咳が止まらなくなって、急遽入院することとなった。年齢も年齢であり、今度ばかりはこのままかと危惧したのだが、入院して数日経った頃見舞ってみると、顔の色艶も良く生気にあふれた表情だったので、まだまだ大丈夫だと安心した。それから1週間ほどして無事退院できたのであった。
 母の生命力の強いのには驚かされたことがあり、80代の前半位に大腿骨を骨折して入院したことがあった。なおこの骨折の原因は、夜中にトイレに起きたとき裾の長かったパジャマの端を自ら踏んでしまったことだったので、パジャマの裾が長いのにはくれぐれもご用心である。
 この入院も、80代のことだからそのまま寝たきりになるのも覚悟をと言われたが、とんでもない、母は自室でも自らリハビリを欠かさず、とうとう普通の人の半分の期間で退院してしまったのである。認知症だった父の世話をしなければという思いもあったかもしれない。もともと母は大学病院の手術場で看護師をしていたということだから、病院の環境には慣れ親しんでいるということもあるのだろうか。
 この母について、先日郡山に行った際に姉から面白いことを聞いた。入院した病院の主治医によると、心臓の弁のひとつがもうだめになっており、要は心臓弁膜症なのだそうである。だから心臓が肥大したり肺に水がたまったりもするということ。そうしたことを繰り返しながらゆっくり衰えてゆくのだそうである。
 笑ってしまったのは、主治医いわく「母の余命は1年か1年半」なのだと。97歳になった人間に余命1年と診断するというのは何と愚かなことかと思うのでる。黙っていたって1か月後には死ぬかもしれないし、逆に100歳を越えて生きるかもしれないのである。もはや人間の計らいなどをはるかに超えて永らえている存在に、余命などということを語るのはおこがましく傲慢不遜ではないか。
 ちなみに血糖値が何と400を超えているそう(もう何十年と糖尿病の薬を飲んでいる)で、今の状態が続くと糖尿病治療で入院させようかと脅かされたそうである。血糖値がこれほどであり、また心臓の弁がおかしくなっていても、何とかバランスをうまくとって生きているのだから不思議なものだ。
 話は変わって、10月末に妻と所属している合唱団が本拠地としている吉井田学習センターの「センター祭り」で短い時間だったが3曲を人前で披露する機会があった。こうやって合唱団に所属して発表会をするのは、郷里の湯沢市にいたときの地域の少年合唱団で行った以来だったろうか。幸い聴いてくれた方の評判はとても良かった。中には(お世辞も交じってはいるだろうが)涙が出たと言ってくれる人もあった。
 以前にも書いたが、合唱の喜びとは、決して独りでは作り出すことのできないハーモニーの喜びである。指導してくれるⅠ先生は、市内の多くの合唱団の指導をされており、そのひとつの福島大学混声合唱団は、日本合唱音楽コンクールの東北部門で一位になり、全国大会でも銅賞をいただいた。機会があれば礼拝堂でコンサートをしてくれるそうである。ぜひ実現させたいものである。
 いろんな方から、夫婦で同じ合唱団に属しているとはうらやましいと言われる。本当にそう思う。時には夫婦で練習する時もあるが、先日は不覚にも思わず涙してしまいそうになったが、あれは単にメロディーの美しさにほろりときただけだった。

2023/12月号 月報より

パレスチナで起きている激しい戦闘がやまない。先日観たNHKスペシャルでは、かつて第1次世界大戦前には、パレスチナではユダヤ人とアラブ人がとても仲良く隣人として生活していた様子が撮影されていた。互いの結婚式に仲の良い隣人として招待し合っていたそうである。
 そんな関係が変わってしまったのは、特に英国によるユダヤ人とアラブ人への2枚舌政策によってであったという。第1次世界大戦における優位さを保ち、また中東で見つかった石油利権を確保するために、英国は両者に対して甘言を弄した。
 さらに、混乱に拍車をかけたのは、ナチスのよるユダヤ人の迫害だった。対ナチス戦略からユダヤ人のパレスチナ帰還は推し進められた。大量に帰還したユダヤ人とアラブ人との間で摩擦が高まってゆく。その揚げ句の第2次大戦終了後のイスラエル建国と中東戦争の始まりだった。
 アメリカのイスラエル支援政策の背後にあるのは、米国におけるユダヤ人とキリスト教プロテスタント福音派(キリスト教の中の保守的教派、特に聖書に書かれていることをそのまま神の言葉として信じる)だとされる。福音派は、聖書の中で繰り返し、繰り返し神がパレスチナの地をアブラハムの子孫に与えると言われたこと(例えば創世記12章7節)をその通り神の言葉と信じ、ユダヤ人がその地を我が物とするのを是とする。
 この創世記12章7節には「主はアブラムに言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』」とあるのだが、実はアブラム(アブラハムとも呼ぶ)の長男はイシュマエルと言い、彼の子孫がアラブ人なのである。アラブ人にはイシュマエルという名前の人は多い。
 だとすれば、イシュマエルの子孫たるアラブの人々も、ユダヤ人同様この地を受け継ぐことができるのはあるまいか。聖書に書かれた言葉をそのまま神に言葉とするならば、当然そのように理解せざるを得ない。福音派の人々はどのように解釈するのであろうか。
 ユダヤ人とアラブ人の共通の祖先たるアブラハムという人は、今日のイラク辺りから移動してくた寄留の民であった。彼が生きていた年代は定かではないが、紀元前1000年よりもさらに何百年も遡る時代である。イラクを出てパレスチナにやってきたアブラハムが、その生涯で手に入れることができた土地は、妻のサラを埋葬するための墓地のみだった。その子どもや孫に至ってもしかりである。
 そうしているうちに、飢餓を逃れて更にエジプトへと放浪することになる。エジプトでは奴隷の身分に落ち、モーセという人物に率いられてエジプトを脱出するも、パレスチナに入ることはできず荒れ野で長い時間を過ごさざるを得なかった。
 そんな彼らが、ダビデという王様のもとパレスチナに初めて王国を建てたのは、やっと紀元前の1000年頃のことである。しかしその王国とて、息子ソロモンの死後にはあっという間に南北に分裂し、北側の王国は紀元前720年頃には滅亡してしまう。残った南側の国も紀元前586年には滅びる。ユダヤ人がこの地を我が物として所有できたのは、この3000年の歴史の中で言えば、わずか500年にも満たないのである。
 聖書の中に次のような言葉がある。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み‥銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」と。そうなってしまえば、あなたがたは滅びると神様は警告されているのである。今のイスラエルは、神によって滅びると警告された姿そのものと言うしかないのではあるまいか。

2023/11月号 月報より

10月8日の礼拝後に、『弱さについて』という主題のもと短い時間だったが教会修養会を持った。今日はそこでのお勧めを記そうと思う。
 私たちは弱さを厭う者である。パウロという人も、体に弱さが与えられたときそれを取り去ってくれるように何度も神様に祈ったという。しかし彼はそこに留まらず、最後は「弱さを誇る」という境地にまで至った。私たちも弱さを厭い、それを取り去ってほしいと願うのは当然だが、そこに留まらず弱さを誇れるようになれるまでになりたいと思う。
 そこでまず、弱さというものを考えたとき、私たちが生き物として持っている弱さと社会的な弱さがあるように思う。生き物として持っている弱さとは、死を避けられない存在であるがゆえの弱さである。他の生き物は避けられない死を厭うということはないが、人間だけがそれを厭う。そこが私たち人間だけの苦しさだと思う。
 しかし人間は同時に、弱さの意味をも悟ることができる。だから弱さを誇れるようになるのではあるまいか。聖書の第一コリント15:43に「弱いもので蒔かれ、強いものによみがえる」とある。種の殻は固いものではあるが、土の中に蒔かれるといずれはその殻は破れ腐り、それによって土の中の様々なものからの働きかけを受けて発芽してゆくようになる。もし種の殻が、土の中で破れたり腐ったりという弱さを持たなかったら、種はいつまでも発芽できないことになろう。
 そのように、生き物は死を免れない弱さを持って蒔かれたゆえに、周囲からの様々な働きかけを受けて、新たな存在へと芽吹いてゆける。そこに弱さの意義があると思う。
 もうひとつの弱さとは、社会的な弱さというべきものである。社会の中で多くの人が当たり前にできることができない故に、劣っているとか価値がないと見なされる人々がいる。それは社会が作り出した弱さだと言ってよい。
しかしその弱さにも意味があると思う。NHKテレビで『しずかちゃんとパパ』という番組が放送され、欠かさず観ていた。主人公の女性は耳が聞こえない両親の子どもとして生まれてきた。誕生した娘が自分たちとは違って耳が聞こえるとわかったとき、母親は「この子は耳が聞こえてかわいそう」と言った。それは、両親とは違う世界で娘が生きねばならない辛さのことも指すのだろうが、耳の聞こえない世界で生きるある「素晴らしさ」のようなものを、娘が知らないからかわいそうという意味もあるのだと思う。
 私たちの世界は、耳が聞こえて当たり前という世界である。そこに幸いがあるとだれもが当然に思っている。しかし耳が聞こえない世界の素晴らしさを知っている人々もいるのである。耳が聞こえない人たちは、耳が聞こえなければ幸いではないという価値観には左右されない。そういう強さにもなるのである。
 いつも触れることだが、聖書のはじめの創世記には、神様が私たち人間をいかなる存在として創造されたかが書かれている。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とある(創世記2:18)。私たちの良さつまり幸いとは何か。それは独りでいて、だれかの助けも要らない状態にあることではないのである。それとは反対に、助けられる者であることが私たちの良さである幸いである。
 弱さがあるからこそ、助けられるのである。
生き物としての弱さも社会的な弱さも、助けられるためにこそある。そういう意味があるところの弱さを誇る者でありたい。

2023/10月号 月報より

 1週間ほど夏休みをいただいたので、10年ほど前に子供たちからプレゼントされた旅行券を使って、夫婦で九州の別府と長崎への旅に出掛けた。
 妻が行きの飛行機とその後の大分空港から別府までのリムジンバスで酔ってしまい、残念ながら別府での温泉巡りなどはゆっくりとはできなかったが、タクシーでほんの少し湯の町の雰囲気を味わうことはできた。
 二日目は長崎を訪れた。まずは26人ものクリスチャンが火あぶりになった記念の地を訪れ、そこにある記念館を見学した。その後大浦天主堂とグラバー邸を訪れ、翌日は原爆投下地の近くにある平和祈念館を見学した。
 福島に帰ってきてからは、改めてキリシタン迫害の関係する書物を読みあさり、豊臣政権から始まったキリスト教迫害の歴史を通して、様々なことを考えさせられた。
 26人の信者が処刑されたのは長崎の西坂という小高い丘であったが、記念館の展示によると記録に残っているだけでも700人近い人々が殉職を遂げているとのこと。しかし記録に残っていない人を含めれば限りがないようだ。江戸時代に処刑された人々の数は、ローマ帝国下で殉職した人よりも多いのではないかと、ある著書には記されていた。
 密告や裏切りが常につきまとう中で、200年以上の長きにわたって、信者たちをしてその信仰を完うさせたものは何だったのか。日本はキリスト教には不毛の地であると言われるが、しかし他方ではそのような希有な信仰の歴史も存在するのである。
 26聖人殉教記念館のスタッフによると、長崎市内のクリスチャン人口は4%ほどとのこと。東北の地でのそれは1%にもはるかに満たないのと比べれば、何十倍もの数字である。はるか江戸時代より連綿と受け継がれた信仰が長崎の地には息づいているのだろう。
だからそれとなく町の雰囲気が違うように感じられるのである。
 それにしても、世界的に見てまことに希有な信仰が息づいていた町に、広島に次いで原爆が投下されたということはどのように受け取ったらよいのだろうか。原爆投下を指示した人々は、長崎はそのような希有のキリスト教信仰の町だと知っていたのだろうか。
どこよりも信徒の多い町の人々は、なぜ自分たちなのかと嘆いたに違いない。長い間の迫害の苦しみに加えて、今また原爆投下による塗炭の苦しみが与えられるのかと思われたのではないか。しかしその苦難を、長崎の人々は信仰によって受け止め支え合ってきたに違いない。だからこそ4%という数字になっているのではなかろうか。
神とイエス・キリストだけを主と仰ぐクリスチャンの信仰は、将軍や天皇・領主を主人とさせるこの世の支配体制にとって、極めて危険なものだと豊臣秀吉や徳川家康らは鋭く見抜いた。危険なものとして見られるということは、今日においても何ら変わっていないのではあるまいか。もし私たちの信仰が、神とイエス様のみを主と仰ぐものであるなら、いつの時代社会であっても、実はこの危険性は不変なはずなのである。何ら危険とは見なされてはいないとすれば、それは私たちの信仰が神のみを主と仰ぐことから変質してしまった現れなのだろう。
クリスチャンの少なさや今後の教会の将来を憂う私たちであるが、つい150年ほど前までこの国ではキリスト教は厳しく迫害されていたことを思えば、今日の現状など当たり前のものではなかろうか。私たちの難儀など迫害時代を生き抜いた人々にそれに比べれば、何ほどのものでもないのである。

2023/9月号 月報より

   『夏が来れば思い出す♪♪』の歌ではないが、なぜか夏になると昔のことを思い起こす。以前にもこの欄で私の来歴の一部を書いたことがあったが、今日は一般の大学を卒業してから神学校に入るまでのあたりの事を記そう。
 大学の法学部4年のとき、私が受けた就職試験は今も農業関係の図書を出版し続けている『農山漁村文化協会』という会社と、YMCA同盟だった。どちらもうまくいかなかったので、同じ大学の教育学部の聴講生になった。母に言わせると、卒業時に神学校に行こうかともらしたことがあった由。しかしまた4年間も仕送りをしてもらうのは忍びなく、諦めたのかもしれない。
 教育学部の聴講生になったのは、当時養護学校と呼んでいた教員資格を取得するためだった。けれども宮城県の教員採用試験もうまくいかず、障がい者についての学びを深めたいからと、所沢にある国立秩父学園(国立でただひとつの重度知的障がい児施設)に併設されていた保護指導職員養成所に入った。
 寮があり食事も提供される養成所だったので、結構難関だった。しかしそこでも大きな挫折があった。その頃はもうすでに婚約しており、ほぼ毎週妻の実家がある郡山に帰り、そろって郡山教会の礼拝に出席していたが、あるときイエス様が弟子たちの足を洗ってくださった御言葉が語られた。養成所では散歩から帰ると職員が入所者の足を洗う習慣があったが、彼らの多くは水虫があった。私はそれがうつるのが嫌で喜んで足を洗ってあげられなかった。入浴介助にも何時間もかかり、イライラとして手をあげそうにもなった。自分には到底向かない仕事だと痛感した。
 それで通所の施設ならと思ったが、当時都会にしか通所施設はなかった。どうしても東北に帰りたいと思っていたので、2年前に就職試験を受けたYMCA(今度は全国の同盟ではなく仙台の)を受験して就職したのだった。配属されたのは予備校職員であり、障がいある方と関わりたいと思っていたのに結果はこれか、と情けなくなった。
 仙台YMCAに就職する直前に結婚していたが、すぐに転職を決意し妻と相談しながらあれこれと一生の仕事を考えた。そんな矢先、仙台YMCAの英語主事として持田さんという方がおいでになった。アメリカのプリンストン大学の神学部で学ばれ、長く日本人教会の教師をしていた方だった。なぜか彼と意気投合し(その後持田さんもYMCAを退職され、80歳を越えた今でも日本基督教会の牧師をしておられる)、ほぼ毎日昼食をごちそうになった。その持田さんが私に、神学校に入ることを勧めてくれたのだった。
 父母に相談すると、母は先程も書いたように、大学を卒業する際に私がそうもらした事があったので賛成してくれたが、長く教会の役員をしてきた父は涙を流しての猛反対だった。教会役員として牧師の苦労をそばで見て来たからなのだろう。息子にはそんな苦労はさせたくなかったのだ。神学校入学の思いを、妻と共に礼拝に通い洗礼を授けてくださった郡山教会の村上牧師に相談したところ、卒業した暁には郡山教会を君に託したいとの思いがけないお言葉だった。父は村上牧師を尊敬しており、先生のひと言で父の反対も解けたのだった。
 郡山教会からは毎月奨学金をいただいき、村上牧師が心筋梗塞で倒れられてからは、月に一度奨励の役割も担わせていただいた。そして無事に東京神学大学を卒業でき、1987年の3月末に郡山教会に赴任したのである。
こんな私が今日まで37年間も牧師を続けてこられたのは、ひとえに神様の恵みによってであり、また傍らで支え続けてくれた妻のおかげ以外の何ものでもない。感謝である。

2023/8月号 月報より

 過日、生涯で初めての新車を購入した。今乗っている車は、震災の前の年に中古車で買ったものだ。2007年が初年度登録なので、かれこれ16年ほど経ったことになる。この5年ほど発進時にゴロゴロと音がするようになっていた。最近はものすごい音がして恥ずかしいこと甚だしい。エンジンの力がちゃんとタイヤに伝わらず、坂道などを上る際には怖いほどきしむ感じになっていた。要はミッションが駄目になりつつあるのだと思う。
 それに加えて、雨が降るとトランクルームに水がたまるようになっていた。大雨の翌日には灯油ポンプで水をかき出す始末である。最近は後部座席の床までが水が滲みてベチャベチャするほどにもなった。いよいよ買い替え時だと観念した。  年齢が年齢なので、ブレーキとアクセルの踏み間違い防止など、安全装備が第一条件である。とするとおのずと新車で買わざるを得ない。随分と大きな出費になったが、もしかしたらこれが最後の車になるのかもしれない。
 それにつけても、現在乗っているフィットにはお世話になった。先にも書いたように、震災の前年に買ったので、翌年3月の大震災時に、もし郡山教会の牧師館屋根瓦が直撃していたら潰れてしまっていたに違いない。
しかし、それを免れて何とか震災を生き延びた。既につくばへの転任が決まっていたが、予約しておいた引っ越し業者とは全く連絡がつかなくなり、懇意にしていた便利屋さんに急遽お願いして、愛犬と共に荷物をフィットに積んでつくばへと出発したのだった。  私は被災者ではあったが、10日ほどしてつくばへと転任できたのだが、ずっと福島に留まらざるをえなかった皆さんはさぞかし大変だったろうと思う。私が住んでいた牧師館は、土台が45度ほど回転し、大黒柱的な役割を果たしていた暖炉(1階から屋根裏部屋までを貫いていた)が崩落して、少しの風でも揺れを感じるほどになっていた。そのため、引っ越しまでは2004年に新築した礼拝堂の和室で寝起きをしていた。次々と原発の爆発が報じられるようになると、あちこちの扉に目張りをして、少しでも外気が入るのを遮断するようにした。新潟にいた長男に、同居していた長女と次女を迎えに来てもらったのは爆発から3・4日した頃だったろうか。
 つくばでも福島ナンバーをそのままにしていたが、嫌がらせを受けるかもしれないから変えた方がよいと教会員からアドバイスもされたが、少しでも福島県に税金で貢献したい思いもあってそのままだった。どこかでまた福島に戻りたいとの願いもあったのかも知れない。避難者の方だったのか、つくばでたまに福島ナンバーの車を見かけることがあったが、帰省すると福島ナンバーが当たり前になった。それがとても嬉しく思えたものだった。
 最近、汚染処理水の海洋放出を巡って様々な議論がされている。国際的な機関が安全だとお墨付きを出し、新聞報道によれば、通常運転されている原発から日常的に放出されているトリチウムの量から比べると、福島原発からのそれはずっと少ないのは確かのようだ。でもそのように安全なら、何も福島沖でなくとも良いではないかと思う。奇想天外かも知れないが、常磐道の高架橋の下にパイプラインを通して、東京湾でも千葉沖にでも注いでもよいのではないか。
 そんな声は少しも聞こえてはこない。要はいつまでも福島なのである。原発の電気は「東京」電力が管理して、主に東京の人々が使っていたのだから、安全だとされる処理水の放出なら関東の海で受け入れてくれても良いではないか。線量が少なくなった土砂の他県への受け入れも一向に進む気配はない。沖縄の基地問題は決して他人事ではないのだ。

2023/7月号 月報より

 最近嬉しい事が幾つかあったので、今月はそれについて書こうと思う。
 まず一つ目は、先日礼拝に日本人男性とインドネシア人女性とのご夫婦が初めて出席されたことがあった。あらかじめご夫君からお電話があり、ご夫人はインドネシアの北スラベシ島の出身だとお聞きしていた。その島の名前を聞いて私にはすぐに思い至る事があった。
 その島はイスラエル教徒の多いインドネシアの中では特別な所で、住民の多くがキリスト教のプロテスタントの信者である。その中でもオランダ系の伝統を持つGMIM(グミンと呼ぶ)という教会と、私たち日本基督教団とは『宣教協約』(端的に言えば友好関係のこと)を結んでいる。その締結準備作業のため、私は5・6年ほど前に教団の責任者と北スラベシ島を訪問したことがあったのだ。
 私にとっては初めての海外旅行だったが、飛行機泊を含めてわずか3泊4日の強行軍だった。その地域は、かつて第二次世界大戦中に日本軍が侵略したところで、その時に日本人との間に生まれた方々の子孫が数多く暮らしておられる。お顔だけを見ると日本人かなと思う人も多い。だからその方々には特別なビザが支給されて、日本にも沢山の方々が在住しておられる。
 茨城県の大洗周辺にもそうした地域があり、インドネシアから来られた方々はそれぞれに教会を形成して礼拝を熱心に守っているのだ。茨城県を含む関東教区の責任者をしていた私は、しばしば招かれて大洗のGMIMの教会に出席した。讃美がとてもすばらしく熱を帯びている。前任地の筑波学園教会でも礼拝をご一緒したこともあった。
 故郷を遠く離れた方々にとって、共に礼拝を捧げられる教会があるということがどれほどの支えになっているかを、いつも痛感させられたものだった。最初に申し上げたインドネシアからの方は、まさしくそのGMIMの信者さんだった。だから本当に嬉しかったのである。
 二つ目に嬉しかったのは、これまた過日の礼拝に初めて出席された方のことである。その方は毎朝通勤途中に教会の前を通っており、教会がとても気になる存在だったので、礼拝に出席してみられたとのことだった。統一教会の問題があり、宗教というものが危ないものであるかのように受け取られている時代である。そのような中でも、こうして教会の門をくぐる方が与えられるとは、何と嬉しいことだろうか。  最後は、Kさんという方のことである。その方は昨年何回か礼拝に電動車椅子に乗って出席されていた。しかしある難病になられ、現在入院中の病院から、郡山市に新たに出来た施設に入所されるという。体調が許せばご自宅に一時帰宅できるので、その際にぜひ牧師の私に会いたいと願っておられると、実のお姉様がわざわざ牧師館を来訪してお伝えくださった。私のような者が難病を抱えたその方に、一体どんな言葉をかけることができるだろうかと思うしかないが、それでも私に会いたいと言っておられるとは何と嬉しいことだろうか。そのお姉様も教会を訪ねることに対して何の妨げも感じておられず、2度までも牧師館においでくださったのである。
 旧約聖書の詩編84篇11節に「あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる恵みです」とある。通常の価値観で言えば、たった一日を生きるよりは千日を長らえる方が良いのだが、神を信じて生きることはこれを逆転させる。弱いことが強くなり、貧しいことが幸いとなる。ひとりでも多くの方々に、この恵みをお伝えしたいものだと思う。

2023/6月号 月報より

 先日、何十年ぶりかでいわき在住の知人から電話があった。ある恩師からいずれその人から連絡があるかもしれないと伝えられていた。それは、その知人がいわきで運営している障がい者施設の理事を引き受けてくれないかとの電話だった。NPO法人なので理事会は1年に一度だけということで、お引き受けした。彼とはどういうつながりかを中心に今日はお話ししたいと思う。
 私は東北大学法学部を卒業したあと、何を思ったか教育学部の知能欠陥学という講座の聴講生をした。当時でいうところの養護学校の教員資格を取るためだった。法学部には弁護士か新聞記者になりたくて入学したが、それはある大失恋が原因であえなくついえてしまった(これについてもいずれは書きたいと思っている)。
 いつかも書いたが、幼い頃の夢はシュバイツァーのように無医村で医者になることだったので、どうしても何か人の為になる仕事がしたかった。宮城県の教員採用試験を受けたがだめだったので、埼玉県所沢市にある国立秩父学園(重度の心身障害児施設)に併設されている職員養成所というところに入った。そこは、1年間実習をしながら障がい者施設の職員を養成する機関だった。はじめに申し上げたのは、そこで相部屋だった福島出身の人なのである。また恩師というのは、その養成所の教務課の先生だった。
 そのO先生には本当にお世話になった。職員養成所にいるとき私は郡山にいた妻と婚約時代で、ほぼ毎週所沢から郡山に帰省していたが、それで当時の国鉄から養成所に割り当てられた学割をほとんど使い切ってしまっていた。講義もまじめに出席しておらず、果たしてちゃんと修了できているのかはなはだ心もとない。そんな私を同じクリスチャンだったということもあるが、心から親身になってくださった。
 そのときのつながりで、つくばにいた頃も養成所同窓生が施設長をしていたある施設の評議員をしており、そんなことで今回も理事就任の依頼があったのだ。相部屋で過ごした仲でもあり、恩師からの頼みでもあったので断ることはできなかった。
 さらにその恩師とは不思議なご縁があり、お住まいはつくば市の近くにある水海道にあった。東京の教会に在籍する信徒だったが、普段は遠いため教え子の私が牧師をしていると知って、筑波学園教会の礼拝に出席されるようになったのである。かつての恩師に礼拝説教をする立場になるとは本当に不思議なものである。
 教師になるまでは紆余曲折があった私だったが、振り返ってみるとその紆余曲折や失敗・挫折がすべて何かの役に立っている。大学では本当に少し法律を聞きかかじっただけだったが、牧師になって特に教区や教団の働きを担うことになって、聞きかじった程度のものであっても4年間学んだことは大いに役立った。また障がいある人々と接してきたことは、牧師になってからも不思議とそうした方々とおつきあいする機会を与えてくれた。
 郡山では、重度脳性マヒのHさんが主宰していた『たけのこの家』の会長を引き受け、また知的障がい者のFさんの後見人のようなことをしていた。そんなことで、いわきにある障がいある人々の施設の理事をお引き受けすることも自然な流れの中にあるものなのである。
 しみじみ感じるが、誰も牧師の成功話など聞きたいとは思わないのである。信徒の皆さんが聞きたいしまた励みになるのは、牧師が失敗してそれでもなお今あるという話である。そんな失敗談なら事欠かない。そうした歩みが与えられたことを感謝する。

2023/5月号 月報より

 福島に転居して来て、ちょうど丸1年になった。この1年間ぎっくり腰になった以外は、コロナは勿論ほとんど風邪もひかず(マスク着用が有効なのだと感じる)、礼拝説教や祈祷会のおすすめ、また与えられた務めを果たすことができた。本当に感謝である。
 この1年は、毎週土曜日朝に代務者をしている福島荒井教会の礼拝説教の奉仕もあった。新年度は、福島地区として代務・兼務をしている牧師を応援しようということになり、月に2回は地区内の牧師たちの助けをいただく。ありがたいことである。
 こうしたことに加えて2月からは、教団の教師委員会の働きも加わった。つくばにいた時にも、2期4年間務めた委員であった。新たに日本基督教団の教職者となった者たち、また10年ほど経験を積んだ者たちの研修に携わる。また6つある教団立の神学校や関係神学部・神学校を問安するなどの働きがあるが、近年とても重い責務となっているのは戒規執行という働きである。牧師たちがさらされるストレスの大きさ故か、様々な「不祥事」が頻発している。そうした事から教会の清潔と秩序を守るのが戒規の意義である。何とか重い責任を果たしてゆきたい。
 こんな働きの中でも、「よく遊ぶ」機会を失ってはいない。福島に来て間もなく、吉井田学習センターを拠点に活動している卓球クラブに入れていただいた。何事もなければ、毎週水曜日の午後に快い汗を流させていただいている。何とわずか1年しか経っていないのに『副部長』に『出世』させていただいた。
 もうひとつは、いつぞやも書いたが、これまた吉井田学習センターを拠点としている混声合唱団に妻と一緒に加入させていただいた。こちらは火曜日が練習日なので、教団の委員会と重なってしまうこともあるが、皆と共にハーモニーを合わせるのは何とも言えず楽しいひとときである。
そこで知り合った方から声をかけていただいて、今度はシャンソンを歌う機会を持てることとなった。シャンソンは、つくばにいた時に「シャンソンを歌う会」に所属していた。福島に来てから適当な団体がないかと探したが見つからないままで来たが、またピアノ伴奏つきで歌えるようになった。
 忙しい務めがあるのに、よくそんなにも遊べるものだと教会員の皆さんにはあきれられてしまうかもしれないが、遊ぶことは心を健やかに保つ上では本当に大事である。牧師が喜んで生きている姿が、教会員の皆さんにとっては何よりも励みではないだろうか。
 さて話は変わるが、先日嬉しいことがあった。長男一家は福島市内のすぐ近くに住んでいるのだが、先日夜9時過ぎにインターホンがなったので驚いて応答すると、息子がとても苦しそうな様子で玄関先に立っていた。何事があったのかと驚いて出たところ、異動する仲間の送別会で飲み過ぎて具合が悪くなったから少し休ませてほしいとのこと。その晩はとうとう具合がよくならず泊まっていった。親としてはこんな些細なことでも、子供に頼られるのは嬉しいものである。息子いわく、「実家が近いのはいいなあ」とのこと。そんな息子の言葉に、内心はにやにやしている親ばかなのである。
 もうひとつ、末の娘がやっと大学を卒業した。長男とは15歳、長女とは11歳も離れている次女なので、これまで随分甘やかして育ててしまったが、その分いろんなことがあり楽しませてもらった。卒業式は土曜日であり、出席することがかなわなかったが、その日の夜には「これまでありがとうございました」との電話をもらった。余り心配をかけられるのは困るが、先ほどの長男のような程度ならこれからも頼ってもらいたいと思う。

2023/4月号 月報より

 2月下旬頃だったが、久しぶりにぎっくり腰になった。これまでも2・3年に一度は軽い症状が出ることはあったのだが、今回はきくっとなった日にどうしても外せない約束があり、長く座っていたのがよくなかった。ハリ治療を受けてせっかく少し良くなったのに、その週の金曜・土曜と重ねて荒井の幼稚園と教会での務めがあった。往復1時間弱の車の運転を連続して行ったことが、状態を長引かせてしまったようだ。
 ぎっくり腰になる前の週の金曜日に、教会より少し前にある信号を見落としてしまった高齢男性が事故を起こし、そのままブレーキとアクセルを踏み間違えて、教会敷地内にある街路灯にぶつかるという出来事があった。街路灯がちょうど運転席と助手席の真ん中にめり込み、車はそこで止まった。運転者は入院はされたようだが幸い命に別状はないらしい。街路灯で止まることがなかったら、そのまま礼拝堂にものすごいスピードで飛び込んでいただろうということ。残滓の後片付けや折れ曲がった街路灯を教会駐車場入り口からよけるために、随分時間や労力がかかった。それが腰に負担をかけたのかもしれない。
 ぎっくり腰になって、ひどい状態の時には自分で靴下もタイツもはけなくなった。妻が起きてくるのを待ってはかせてもらった。これが介護を受けることなのだと実感した。ありがとうと何度も口にするようになった。そこでふと思ったが、これからの私の人生の目標は、いつか私の介護をする人が喜んでそれができるようになるということもあるなあと感じた。介護者が私のところに来るのが嬉しいと思うようになったら、どんなにすばらしいだろうか。
 家の中を歩くときには、末の娘が体育で使った剣道の竹刀を急ごしらえの杖にしてお世話になった。横になった状態から体を起こしたり、椅子から立ち上がるときにも杖にすがる。柱やテーブルにつかまったり寄りかかったりするのは勿論のことである。
 そこでしみじみと感じるのである。私たちが立ったり座ったりするとき、自分でそうできなければ外からの支えにすがるしかない。自分で自分を支えにすることはできないので、外にあるものにすがるのである。杖がない場合に立ち上がるときには、ふとももに手を踏ん張ってそれを支えにして少しずつ立つ。それとて、両足が地面からの支えを受けているからできることである。
 要は生きるということも同じではないのかと感じる。自分だけの力で生きることが難しいことがある。そういうときには外からの力にすがらねばならない。壁や机に寄りかかりつかまりまた杖にすがる。そうやって、他者や公の支援を受けるのである。そんな当たり前のことが、自分自身にも他人も許容できなくなってしまっているのではあるまいか。
 私たちにとって、神様・イエス様を信じるのもそういうことなのである。どうしても自分自身の中には、立ち上がったり座ったりという力がない。そのときには、神様・イエス様につかまりすがるのである。そんなものは必要がないとか、そんなことをするのは弱い人間のすることだと言ったりするが、それはよりかかる壁や杖などいらないと言うのと同じなのだ。
 30代の頃に、バドミントンをやっていてアキレス腱を切った時のことを思い出す。4週間ほど入院したように思うが、2週間でギブスがとれた後は毎日夕方にリハビリの所に行って、ホットバックというものをあてて患部を温めてからマッサージを受けるのであった。その手の温もりが何とも言えず嬉しかったのが忘れられない。まさに『手当て』そのものだった。

2023/3月号 月報より

 おそらくは次月の説教に書くつもりだが、先日の礼拝で「信仰の父」とされるアブラハムという人が、75歳で故郷を旅立ったということに耳を傾けた。これを読むたびに、同じく75歳で長年住み慣れた秋田県の湯沢を離れ、私が牧師をしていた郡山へと引っ越してきた父のことを思い出す。そこでまた改めて父のことを記そう。
 いつぞやの月報で、教会の移転問題を巡って父は牧師や他の教会役員と対立し、以来教会生活から離れてしまったということを書いた。そんなこともあり、また雪深い湯沢での生活の大変さもあって、郡山でちょうどよい中古の住宅があり、さらには姉の仕事も既に郡山で与えられていたので、父母と姉・その子供も一家そろって郡山へと移り住んできたのであった。
 転居以降は、父は忠実な教会員として私が牧師をしている郡山教会で、欠かさず礼拝を守るようになった。息子が牧師をしている教会の礼拝で、その息子が語る説教を聞くということは父にとっては嬉しいことだったのだろうか。父は90歳になっても、安達太良山の山開きには必ず登山し、富士山にも登るような健脚だった。
 そんな父が、いつものように日曜日のれいはいに来ようとして迷子になってしまったのは、2010年の2月頃だったろうか。普段降りるバス停を乗り過ごし駅近くで降りてしまって、方向を見失ってしまったようだった。発見されたのは次の日の午前1時を過ぎたころで、寒い冬の時期でもあり私たちはほぼ死をさえ覚悟していたほどだった。
 それから父の認知症は徐々にひどくなり、戦時下のフラッシュバックからなのか夜中に突然起き出して、誰かが襲ってくると刃物を取り出すようなこともあったと聞く。自宅での介護はできなくなり、施設に世話になることになった。そんな中、母校の神学校から筑波学園教会への転任の話があったが、最初は父のことがあるのでと断った。通常はこれで転任の話は終わりになるのだが、当時の筑波学園教会は牧師がおらず、困っていた学長はとても熱心だった。これまで一度も転任の話に首を縦に振ったことのない妻が応じようと言ってくれた。父と母は辛かっただろうと思う。
 つくばから郡山へ1年に数回でしかなかったが、施設にいた父を見舞った。職員に暴行して一時は精神病院に入院せざるを得なくなった。実はその病院は、私が定期的に入院している教会員を見舞ってきたところだった。そのため、その病院に父がお世話になることに対して余り抵抗感がなかった。神様はそんな形で道を備えてくださったようにも思う。最後は姉が薬剤師としてかかわっていた病院の系列施設に入居できるようになり、そこで最後を迎えた。
 最近いずれ自分自身も行くだろう道と思うがゆえに、認知症に関する本を読み続けている。遠くにいて何もできなかったが、もっとしてあげられたことがあったのではないかと申し訳ない思いが一杯である。
 75歳にして生まれ故郷・父の家を離れて、見ず知らずの地へと旅立ったアブラハムに、神様は何度も「祝福」との約束を告げた。私たちもすべて、いずれは「生まれ故郷・父の家を離れて」認知症や死への旅路を迎えねばならないが、そこには「祝福」が伴っているのではないだろうか。それは決して恐ろしあゆみではないのであり、父からそれを知る。

2023/2月号 月報より

 年の始めに様々な特別番組や新聞記事の特集があり、その中から幾つか心に残ったものを記す。
 まずは、正確なタイトルは覚えていないが、ある脳科学者の娘さんと60歳代でアルツハイマーになられた実母の姿を描いた番組から。母は自分の名前も誕生日もわからない。かつては娘のために「なんでもやってやるよ」といつも言っていた母であるが、もう何もできない。そんな母は自分自身を「バカだから」と自嘲ぎみに言う。それを聞いて「何でそんなことを言うの」と娘は涙する。
 一体どうやって私共は、このどうしようもない弱さや情けなさを受容してゆけるのか。番組を見ながら何かの本で読んだのであろう言葉を思い起こす。あなたが自分で自分を思い出せなくとも、側にいる私があなたを覚えているからと。私とは、実は私が覚え保持している存在ではなく、私ではない誰かが覚え保持してくれているものではないか。それでよいのではないか。
 度々この欄で紹介する聖書の言葉だが、創世記2:18に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とある。他の生き物もそうであるかも知れないが、人間こそ「助けられる」存在として造られたのではないだろうか。私たちは助けられることを拒絶してしまうが、そこに私たちの良さというものがあるのではなかろうか。助けられる事を喜んで受容できる者になりたい。
 次に、やはりNHKの『超進化論』という番組から。強い者が生き残り淘汰してきたとずっと私たちは考えてきたが、実はそうではない。むしろ、弱さに直面したときにこその弱さを受け入れ、自分だけではない他者に頼ってこそ、生き延びてきたのだという。たとえば生物の源となったある微生物。海の中にいたが、自分ひとりでは酸素を体内に取り込みエネルギーにすることができずに絶体絶命の危機に陥った。その時彼はどうしたか。何と自分の外にいた全くの他者である微生物(酸素を取り込んでそれをエネルギーに変えることができる)を体内に取り込んで、一体化したという。それが今私たちの細胞内にあるミトコンドリアなのだという。
 弱さを排除するのではなく、弱さに直面してそれを受容しつつ、だからこそ他者の助けをいただくこと。そうやって私たちは何十億年も生き延びてきたのではあるまいか。
 次は、1月6日の朝日新聞の1面記事から。『リハビリの輪 大きな家族』というタイトルである。東京都豊島区在住の重度障がいのある皆川怜大さんのリハビリを手伝うために、いろいろな方が彼の家に集うのだという。桜井さんという大学生は、家族の会話もラインが中心で、常に相手の反応が気になり友人にも本心は見せられないが、このリハビリを手伝うときには「ありのまま」でいられるという。今日本では「弱者」とされてきた人たちを中心にして、人々が寄り合う場がどんどんできつつあるとのこと。
 そのような場の一つが、輪島市にある「輪島カブーレ」。ここでは、障がい者を中心に、親子、高齢者、旅行者が「ごちゃまぜ」に交流しているという。そば屋が営まれ、周辺900世帯が無料で利用できる銭湯、高齢者と障がい者のデイサービス、スポーツジムもある。親子カフェでは独居高齢者が本を読み、その傍らで障がい者が作業をしている。ゲストハウスには観光客やビジネスマンの姿もある。この施設を運営している団体の責任者は、お寺の住職を父に持つ方。
 かつてのユダヤ教の会堂は、普段はコミュニティの学校であり病院であり集会所でもあったことを思う。教会はまず何よりも礼拝を献げる場ではあるが、地域の方々が折にふれて集えるような場所でもありたい。今年も許される限り、礼拝堂がそのような場として用いていただけたらと願う。

2023/1月号 月報より

 この原稿を書いているのは、アドベントの真っ最中の時であるが、私が思い出すクリスマスと言えば、郷里の湯沢教会の教会学校でクリスマスの劇をやったことである。
 多分、小学校の低学年ではなかったか。よくよく内容は覚えていないが、私は誕生したイエス様を訪ねようとする博士のひとりに扮している。仲間の博士たちの名前をなぜか必死になって呼んでいる場面だけはよく思い出す。読んでいる博士たちの名前は、カスパル/メルキオール/バルサザールであるらしい。
 マタイによる福音書によれば、彼らの名前までは書かれてはいないが、3人の博士たちが誕生したイエス様のもとを訪れたと記されている。私が扮している博士は、言い伝えとして残っている3人の博士たちの名前を必死になって呼んでいるのである。だとすれば、彼らの名前を呼んでいる私とは誰なのか。もうおわかりかと思うが、どうも私が扮したのは、いわゆる『4人目の博士』として伝えられている人らしい。  改めてネットで検索してみると、この物語はすぐにヒットする。絵本や映画にもなっている有名なもの。4人目の博士の名前はアルタバン、誕生したイエス様のもとに行こうとしたが、その途中でいろんな人を助け仲間とはぐれてしまう。その後も同じような働きを続けた結果、やっとエルサレムに到着した時には30年の月日が流れてしまい、イエス様は十字架につけられてしまっていたという物語である。失意に陥る年老いたアルタバンを、不思議な形で現れたイエス様が慰めてくださったという。
 ちゃんとした台本も渡され、随分熱心に練習したのを覚えている。演じ終わった後で教会員の皆さんからいただいた賞賛の声は忘れられないものだった。その後本格的な演劇に関わるようなことはなかったが、大学時代の友人たちはなぜか皆演劇部だった。
現職を引退したら素人演劇をやってみたいと密かな思いも抱いている。
 教会学校の出し物は、24日のイヴ礼拝で披露されたものだった。湯沢教会のイヴ礼拝でのキャンドルサービスは、ひとりひとりがローソクを手に持って講壇の方へと進み、そこに並んでいるローソク台にローソクを立てながら、それぞれが来るべき年への願いを口にするというようなものだった。なつかしい母教会での思い出である。
 話は変わるが、最近『サードプレイス』という言葉を耳にすることがある。第1番目の場所が家庭で、2番目が学校だとすれば、そのどれでもない第3の居場所がサードプレイスである。そこは、1番目・2番目とは全く違う価値観で接してくれる場所である。そういう場所が子供にも大人にも必要なのだということ。教会は私にとってのそのようなところだった。
 先月もこの欄で書いたが、このところ信仰や宗教というものへの逆風がきつい。『宗教2世』として親から信仰を強制されて育った子どもたちにとって、信仰の世界はもはやサードプレイスではない。親の価値観と全く同じファーストプレイスになってしまっている。それでは息がつけない。信仰の世界とはサードプレイスであってこそ意味がある。そこでこそ、この世のファーストプレイスで息がつけなくなった者が、息を吹き返せるようになるのだ。
 歌手のユーミンの歌に、「小さいころは神様がいて・・・」(『やさしさに包まれたなら』)とある。小さい頃には誰にでも神様がいて、そこがサードプレイスだった。でも大人になって多くの人はそんな場所を失っている。もうそんな場所などいらないのだろうか。いや、大人になってこそサードプレイスが必要なのではないか。
 クリスマスがかくもにぎやかに祝われるのも、そこに密かにサードプレイスを見いだせるからなのかもしれない。

2022/12月号 月報より

旧統一教会がらみで『宗教2世』という言葉が世間をにぎわせている。かくいう私自身もその宗教2世にあたる。いつかのこの欄に書いたように、父は郷里の教会の熱心な信者であり役員もやっていた。しかし幸いにも私は、両親からただの一度も礼拝出席を強要されたりすることはなかった。
 1ヵ月前のNHK教育テレビの宗教の時間(土曜日のお昼放送)で、カルトについての座談会が放送されていたが、その中でご自分自身カトリック教会の信者である評論家・思想家の若松英輔さんが、カルトの定義の一つとして「拘束」ということを挙げておられた。それはその宗教団体からの出入りが自由であり、またある時期には疑ったり信じない自由が奪われることを意味していたが、若松さんは「宗教は一歩間違うとカルトになりうる」とも語っておられた。
 しかし私に言わせれば、「一歩間違う」どころではなく、宗教とは常に「拘束」という性格を持ってしまう側面があるものではないか。「拘束」を言い換えると「ねばならぬ」ということである。
 これは、礼拝説教でもご紹介したが、日本にも講演に来られたスイスのクリスチャン医師でP.トゥルニエという方が、『人生の四季』という本の中で、同僚だったボベーという方のこんな言葉を書いている。ボベーの教えていた学校で「あなたがたにとって宗教とは何か」と尋ねたところ、ある男子生徒が「それは禁じられていることのすべて」と答えたという。宗教や信仰を禁止や拘束と同じものと捉えてしまっている人がどれほど多いことかの現れとして、ボベーやトゥルニエはこれを書いていた。しかし私自身は幸いにも信仰を一度たりとも禁止や拘束と捉えたことはない。
 イエス様の生涯を記して4つの福音書を読むと、イエス様がたびたび当時の「禁止」や「拘束」を破ったことが記されている。その時代の宗教的指導者たちはイエス様に「なぜ、あなたやあなたの弟子は・・・をしないのか」「してはいけないことをするのか」と問い詰めている。イエス様が十字架につけられて殺されてしまった最大の原因はここにこそあった。イエスという方は、その命をかけて信仰が禁止や拘束に変わってしまったことに抵抗し。信仰が自由や喜びをもたらすものにしようとなさったのである。
 聖書を読むと、確かに「こうしなさい」とか「こうしなければならない」という、文字通りには命令や強制と受け取るしかない言葉が数え切れないほど出てくる。それをどう受け取るかがとても大事だといつも思う。神様は確かに、私共の願いや思いを越えて様々な出来事を強制し科されることがある。イエス様もたびたび私たちに「自分の十字架を背負え」と言われた。しかしそれはあくまで神様やイエス様ご自身が私共に科されるものである。それは例えば、意に反して与えられる災難であったり病気であったり死であったりする。けれどもその強制は、神様ご自身からのものであるがゆえに、最後には私たちにとって良いものとなり、私たちの自由や喜びをもたらすであろう。
 これに反して、人間が科すものは決してそうではない。宗教は人間の営みとしてなされるものであるがゆえに、人間がある事柄を「これは神からのもの」と信じて自分自身や他者に科してしまうことがある。それは本当に神様ご自身からのものなのか、それとも人間がそのように考えるだけのことなのか。その見分けが本当に難しい。
 私たちが救い主・キリストと信じる方は、その命をかけて「拘束」や「禁止」と戦ってくださり自由をもたらしてくださった。クリスマスが近づいてくるが、なぜ2000年間もこの方の誕生がこれほどに祝われているか、その理由の一端がここにもあるのではないだろうか。

2022/11月号 月報より

8月末に、妻と共に市内のある混声合唱団に正式に加入させていただいた。先日その団員の方から、「教会のホームページで福島さんの文章をいつも読ませていただいています。とても教えられることが多いです」と言われ、嬉しかった。教会の外にいる方々にも伝わるような文章にしたいと思うが、一ヵ月は本当にあっという間で、何を書こうかと思い悩む時もある。
また先日その合唱団の団長さんが教会においでくださり、久しぶりに囲碁の対局をさせていただいた。若い時に教会にも行かれたことがあるそうで、いつか会堂で合唱の練習をさせていただきたいと願っておられた。皆さんがお許しくだされば、ぜひ実現させたいものだと思っている。
私の持論は、さまざまな機会をとらえて、できるだけ沢山の方に礼拝堂の敷居をまたいでいただくということである。そんな思いから、2004年に郡山教会の新会堂を建てた後、「チャペルハーモニー」という合唱団が結成されて、1ヵ月に2度ほど会堂で練習を重ねていた。クリスマス祝会には合唱をご披露くださり、その中から転会・受洗へと至る方があったと聞いている。
また、コロナ禍が過ぎれば、ぜひ会堂の扉を日中開けておく時間も作りたいものである。これも郡山教会でもつくばでも行っていた。よくお昼休みにサラリーマンが静かに座っておられたり、母子が立ち寄っておられたものだった。会堂は公の器である(だから固定資産税などの税金が免除されている)ということを忘れないでいたい。
話は変わるが、いろいろな考え方のある中で元首相の国葬儀が終わったが、この葬儀について9月30日付朝日新聞の社会学者橋爪大三郎氏の寄稿は心に残るものだった。何の偶然か同じ国葬として執り行われたエリザベス女王の葬儀との対比がなされ、「(女王の)国葬は、イングランド国教会の儀式で、カンタベリー大主教らが司式した。女王を神の僕(しもべ)と呼び、70年にわたりその職責(サービス)を果たしたと讃えた。務めを終えた女王は神の手に委ねられる。人生を考える信仰の枠組みがしっかりしている。儀式の細部まで、国教会の伝統と教義で整えられていて、気品と美しさはそこから醸し出される。
(これに反して)日本の国葬儀は形式が決まっておらず、伝統も哲学もない。だからイベント業者が受注し、広告代理店を思わせる演出になる。スピーチの人数が多すぎ、長すぎる。・・ひとことで言えば空虚だった。」とあった。
女王の葬儀の中で、彼女の即位式にも歌われたという(女王自身の愛唱讃美歌でもあろう)讃美歌があった。これは私自身もよく礼拝でも選ぶものだが、有名な詩編23篇から作られた讃美歌で、『主はわがかいぬし』と始まる。国も民族も違っても同じ讃美歌を歌う人々がいるということは、どれほど嬉しいことか。ちなみにこの詩編23篇は、私たち牧師が信者さんの臨終の際にその枕べで祈りを献げるときに、読むものである。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。・・・たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」とある。
元首相が、東京オリンピック招致の演説の中で、原発事故後は『アンダー・コントロール』だと言ったことが忘れられない。24年間郡山にいて東日本大震災を体験し、今また福島に戻って来た者として、一体どこがアンダー・コントロールなのかと憤りを感じる。そのように語った人の最後が、アンダー・コントロールとは全く正反対のものだった。
私共の生涯は神の御手の中にあって、到底アンダー・コントロールなどできないものである。エリザベス女王の葬儀は終始一貫してそのような信仰に貫かれているということであろう。

2022/10月号 月報より

8月15日から21日の主日まで、夏休みをいただいた。夏休みとは言っても、特にどかに出かけるという訳でもなく、普通同様午前中は机に座るのは全く同じである。違うのは、説教の準備はせずともよく、これまでに読んだ本や新しく手に入れた本を乱読するのである。今月号では、そうやって改めて心に残ったものをご紹介したい。
 それは、カウンセリングの理論や技術を大きく発展させたカール・ロジャーという人について解説をした本である。著者は、以前礼拝でもご紹介したことのある諸富祥彦という方。その第2章より、少し割愛しつつ原文を引用しよう。(以下はすべて角川選書『カール・ロジャーズ―カウンセリングの原点―』諸富祥彦著から)
 「個人的な苦悩の中にただ中にいる人を、25年以上援助してきた経験からわかってきたのは・・・きわめて重い状態の人、とても反社会的な行動をとる人、きわめて異常な感情を示すように思える人でも・・・(カウンセラーが彼らの表している感情を敏感に理解することができる時には)一定の方向に向かって変化していく傾向があることがわかった。
それは、肯定的な方向であり、建設的な方向であり、自己実現に向かう方向であり、成熟した人格への成長であり」と。
 次のようなことも言われている。(ロジャーズの考え方の)「背景に、人間に対する、否、生命そのものに対する絶対的ともいうべき信頼がある。・・・その中心にあるのは、『実現傾向概念』である。・・・花であれ木であれ、虫であれ美しい蝶であれ・・・ありとあらゆる生命体は、自分の可能性を実現してゆくようにできている。・・・この世におけるすべてのいのちあるもの、すべての生命体は、自らに与えられたいのちの働きを発揮して、よりよく、より強く生きるよう定められている」と。
 そして、ロジャーズがしばしばその講義や講演で繰り返し口にした次のようなエピソードが紹介されている。これは私の心にも強く残っているものなので、是非とも皆さんにもご記憶いただきたいと思う。「少年時代、冬に食用とするジャガイモを入れていた地下室の貯蔵庫をよく思い出します。それは小さい窓から2メートルも地下に置かれていました。そのジャガイモは、それが置かれた条件はまったく良くないのに芽を出そうとするのです。この悲しいきゃしゃな芽は、窓からもれてくる薄日に届こうと、60センチも90センチも伸びるのです。(中略)それらは決して植物にはならないでしょうし、成熟もせず、可能性も開花させることもないでしょう。けれども逆境にあってそれらの芽は成長しようともがいているのです。(中略)おそらく歪んでしまった人生を生きているクライアントと面接している時、あるいは、州立病院に戻ってきた患者と面接をしている時、私はよく、あのジャガイモの芽を思い出します。あまりにひどい状況を生きてきたために、これらの人は以上で、歪められ、人間らしくない人生を展開させてしまったひどい状況にいます。けれども、その基本的な志向性は信頼することができるのです。彼らの行動を理解する手掛かりは、勿論可能なやり方に限られてはいますが、成長と生成に向かってもがいているということです。健康な人間には奇妙で無駄と思えるかもしれないけれども、その行為は、生命が自己を実現しようとする必死の試みなのです。」
 長く大変な状況に置かれている方々に関わってきた心理療法家が、以上のようなことを語っておられるのを聞くと、私たちも難儀な状況に置かれても安心してよいのだという気持ちがしてくる。私たちすべてには、このジャガイモのように何とかして成長しようとする根源的な強さが与えられているのである。それは、突き詰めると創造者である神様に行き着くような思いがしてならない。

2022/9月号 月報より

先日、教会員のある方からのご紹介で、福島市内で『子ども食堂』のコーディネイターをしておられる方とお会いする機会があった。懇談をする中で、寄贈される物資の保管場所に苦労をされていると聞き、教会伝道館の1階を提供できないかとの思いがよぎった。長老会でもご相談したが、よくよく考えてみると、教会としても常時の場所提供は困難でもあり、先方は先方で保管場所が事務所と教会とで二重になり、かえって手間がかかるとわかってこの話はなくなった。しかし今後も、個人的にも教会としても何か協力できることがあればしてゆきたいと思っている。
 私は長く郡山教会で、とても細々とした働きではあったが、牧師館を訪れるホームレスの方々に食事を提供してきた。月に一度思いのある教会員が集まり、100食程度のお握りを作って冷凍し、それを牧師館にホームレスの方が訪れると電子レンジで温めて、ほんのちょっとのおかずを詰めて差し上げるのである。またつくばでも、お隣にあった茨城YMCAを会場にして『みんなの食堂』という働きを2年弱続けたこともあった。
 何をきっかけにこんな事を始めたかと言うと、ある時礼拝説教を準備していた際に、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とのイエス様のお言葉に心打たれたからだった。これは、『5000人への供食』と呼ばれる出来事の中に記されたお言葉である。夕方になり、イエス様の話を聞いていた沢山の群衆は空腹を抱えていた。弟子たちは彼らを解散させて、自分たちで食べ物を手に入れようとさせたが、その時イエス様は先ほどのように言われたのだった。
 使徒言行録20章35節で、パウロはイエス様はお言葉として「受けるよりは与える方が幸いである」と語っているが、キリスト教会は最初から『与えること』すなわち慈善やチャリティーということを大事にしてきたのである。
このことでいつも思い起こすことがある。
これは、折々に紹介してきたことだが、田川健三『キリスト教思想への招待』という本の中にこのような話がある。キリスト教をはじめて公認したローマ皇帝として有名なコンスタンティヌスの甥にあたる人に、ユリアヌスという皇帝がいた。彼はキリスト教が大嫌いで何とか国を昔の宗教の戻そうとしたのだが、面白いのは、そうするにあたって、なぜキリスト教が200年以上も続いた迫害を生き延びて広がったかを学び、キリスト教を見習えと命じたという。
 ユリアヌスが挙げた、キリスト教から見習うべき点は、①他者に対する人間愛、②死者の埋葬に関する丁寧さ、③よく鍛錬された生き方の真面目さ、であった。これは、キリスト教が大嫌いの彼が見習えと列挙した事なのだから、決して手前味噌ではない。最初に挙げられた他者に対する人間愛が、慈善やチャリティーである。これこそが、長く続いた迫害をサバイバルさせた筆頭にあげられることなのであった。  私がいつも思わされるのは、今日の教会はこの特徴を失ってしまってはいないかということなのである。教会を‟教会派”と‟社会派”に二分し、‟教会派”とは専ら礼拝にのみ傾注する教会であり、‟社会派”とは礼拝を軽んじて社会的な働きに勢力を注ぐ教会のことであるとされた。しかし、そもそも教会とはそのように二分されるようなものだろうか。無論、教会はまず何よりも礼拝共同体であるが、そうであろうとするがゆえに、礼拝に来ようとする人々を様々な面で担ぎ合うのではないだろうか。そこから慈善が生じる。このような特質を決して喪失してはならないと思うのだ。
 最初に述べたような出会いから、8月末には市内で子ども食堂に関わっておられる方々のミーティングの席に連ならせていただく機会を得た。こんなことからまた何かが始まってゆくのではないかと期待している。

2022/8月号 月報より

先日の週報の牧師予定に「『阿部洋治教師の正教師に伴う式』に出席」とあって、これは一体何だろうといぶかしく思われた方もおられるでしょう。
 そもそもの発端は、1970年代の日本基督教団がとても混乱していて教師検定試験を長く実施できなかったことでした。そのような中で―今もその団体は活動していますが―
『福音主義教会連合』というグループが自分たちで教師検定試験を行い、准允とか按手礼という式を独自に行ってしまったのでした。阿部洋治先生は、この時に牧師となるための『按手礼』(正式なものではないのでこのような表記をします)を受けた方なのです。
 さて、詳細は省きますが、2018年に様々な事があって、阿部先生は教団の正式な教師検定試験をお受けになる決意をなされ、教師になるための正教師試験に合格されました。しかし試験に合格しただけではだめで、教区総会で議長の執行する按手を受けねばなりません。そこで大きな問題になったのが、彼が1979年に受けた福音主義連合の『按手礼』をどう捉えるかということでした。一方では、それは教団内の私的グループが勝手に行ったものだから、阿部教師は再度按手礼を受けねばならないという意見が有りました。他方では、教区総会がその『按手』を有効なものと認めるなら再度の按手は不必要との意見もありました。議長だった私は本当に悩みました。そこでまずは、こうした事柄について答えを出す機関である教団の信仰職制委員会にお伺いを立てたのです。同委員会も本当に悩まれたと思います。そして出た結論は、かって福音主義教会連合が行った『按手礼』は正規の手続きを経たものではないとしても、その『按手』自体は聖なるものとして重んじられるべきであり、再度の按手は避けるべしとの答申でした。
 この答申に対しても厳しい批判がありました。福音主義教会連合が行った『按手礼』は非合法のものであり、だとすればそこで施された『按手』はどこまでいっても非合法のものでしかなく、どうしてそれを『聖なるもの』と言えるかとの批判です。私もこの意見はよくわかります。
 しかしわかった上でなお思うのですが、今回は1979年の非合法状態を合法なものに転化するために様々なことがなされたのです。
まずは阿部先生は、教団の求める教師検定試験を受験され正教師試験に合格されたのです。このことは決定的に大きなことです。過去の事例にも、教団の私たちから見れば到底正規のものとは言えないような他教派での『按手礼』を受けた方が、教団の正教師検定試験に合格したことをもって、その『按手』が有効なものとされたことがありました。
 また当時の福音主義教会連合による非合法的な行いには、やむを得ないと言わざるを得ない事情もあったのです。かって法律を少しかじった者として、『違法性阻却(そきゃく)事由』との考え方があったのを思い起すのです。正当防衛だったり、緊急的に避難する場合、通常は違法・非合法な行為も許されることがあるのです。当時は、教団の教師検定試験が多いに混乱し、教区総会も開催されていませんでした。そのような中、福音主義教会連合が独自の検定試験を行い、教師を生み出そうとしたのは、やむにやまれぬ行為だったのです。その先生が、今回正式な教師試験を受験されて合格なさいました。溯る形ではありますが、当時の非合法な状態が合法なものへと変えられていると判断しても良いのではないでしょうか。
 こんなことを、5月に開催された教区総会でも圧倒的多数の議員の方々が認めてくだったのです。7月12日に行われた式とは、『按手』はしないけれども、阿部先生を正教師として関東教区が認め受け入れ祝福するための式でした。長年の労苦が認められたと、とても嬉しく思っているところです。

2022/7月号 月報より

私の来歴を記すのも今日で3回目となりますので、もうこの辺で終わりにしたいと思います。またいずれ何かの機会がありますれば、お話しすることもあるでしょう。
 さて、前回までご紹介したような生い立ちや境遇ゆえか、父はとても嫉妬深く、養護教諭をしていた母とよくいさかいになったのでした。夜中に激しい夫婦喧嘩の声で目がさめることもしばしばで、それが嫌で私は毎晩神様に祈るようになったのでした。
 私にとってはそのことが信仰の始まりであり、そうやって芽生えた信仰は今でも何ら変わってはいないと思っています。信仰とは神頼みなのです。自分ではどうしようもなくなった私共が、幼子のように神様を頼り願うことが信仰なのです。どうしてそれを恥じることがあるでしょうか。幼子にとって養育者がいるのは当然です。養育者がいない幼子には、社会がそれを備えてあげなければなりません。そのように、私共は幾つになっても実は幼子なのです。
 よく信徒の皆さんにお話しする事ですが、船引の老人ホームにお世話になっていた妻の父を訪ねたとき、玄関ロビーに座っていた私の隣に、80歳をはるかに超えたとおぼしき女性がちょこんと座ってきて、「わたしのお母ちゃんはどこだろうか」と聞いてきたのです。ある介護の専門家は言っておられますが、私たちはだれもが最後は赤ん坊になって、母親を求めるようになると。そうなる私たちには親が不可欠なのです。養育者を持たない幼子は本当に惨めです。養育者こそが神様なのです。この方を頼るのが信仰です。
 さて、牧師になってもう36年が経ちますが、一番忘れられない思い出を語って終わりにしましょう。震災前の2011年まで牧師をしてた郡山教会で、Aさんという方との心に残る思い出があります。彼はアルコール依存症のため何度も何度も無銭飲食で捕まっては服役を繰り返していた方でした。

 もとは郡山教会の信者であり、ある時からは別の教会に移っていましたが、出所するとなぜか牧師館を訪ねてくるのです。私にとっては正直言って迷惑な方に過ぎませんでした。
 2003年から4年にかけて、郡山教会で会堂を新築することになり、様々な事があって私はとても辛い立場に置かれていました。もう郡山教会の牧師を辞めようかとも半ば思っていたのです。そんなとき彼から手紙が届きました。ホームレスになり脳梗塞で倒れて、今は半身マヒになって車椅子生活になり、退院するあてもなく精神病院に入院しているというのです。何も要らないから見舞いに来てほしいと、手紙にはありました。
 私はその言葉に神様の声を聞いたように思ったのです。会堂建築をする中で、牧師としていろんなものを持たねばならないと思っていたのではないでしょうか。その頃は東北教区の議長にも選ばれていたのです。そんな気負いが教会の方にも何らかの圧迫を及ぼしていたのかもしれません。そんな私にAさんは、何も要らないではないかと語りかけてくださったのです。何も持たないあなたが、ただ私を訪ねてくれることが私には嬉しいと彼は言ってくれました。そこに神の声を聞きました。
 それにつけても思うのは、どんなつながりが幸いするかわからないということです。実はAさんとの最初の出会いは、あるスナックから、彼が無銭飲食をしたので牧師さんにお金を払ってほしい。そうでないと、彼を警察に突き出すと電話がかかってきたのが始まりでした。確か1万円をはるかに超える金額を何ヶ月かの分割で払ったのです。ところがです。何とその数日後に、今度はわずか1,000円位の無銭飲食をして彼は捕まってしまったのでした。そんな人と嫌々ながらもつきあってきたのです。そういうつながりが結果的には私を助けることになったのでした。その時には迷惑だとか嫌だなあと感じるつながりが、幸いすることもあるのですね。

2022/6月号 月報より

さて、私の来歴を続けて記してゆきたいと思いますが、先月号では特に父のことを書きかけたところでした。今月も引き続き、私自身というよりも父のことを振り返ってもたいと思います。
 父は晩年は認知症で苦しみ、後で書きますが太平洋戦争時代のトラウマからか被害妄想ゆえの暴力も出てしまって、一時はどこも引き受け場所がなく精神病院に入院していたこともありましたが、最晩年はとても良い施設でお世話になって、2016年に98歳で召天しました。郡山教会を会場に息子の私が前夜式の司式をさせていただきました。実の息子に司式をしてもらうとは、何と父も嬉しかったことかと我ながら思っています。
 葬儀の際に、郡山教会の小峰牧師が、あるときに発行された郡山教会の月報に掲載された父の文章を手渡してくださいました。少々長くなりますが、一部をそのままご紹介します。
【聖書との出会い】
 終戦後間もなく、南方より引き上げ復員した当時は、国内が精神的混乱と社会不安な時でした。如何にして生きられるか、考えれば考えるほど不安です。悩み苦しみました。
 そんな時に、一枚のビラ紙によりキリスト教伝道集会案内が目につき、夕拝に出るようになり・・・1947年夏、賀川豊彦先生の特別講演を聞き深く感銘し、求道者となり1年後受洗しました。
 受洗記念にいただいた聖書との出会いは、本当に感謝でした。感謝感激のあまりうれし涙で思いっきり泣いたことを忘れる事はできません。今に思えば、信仰の道に入ることになった運命の定めは、不幸か幸福になるかの最良の選択だったと思います。主にありて神が選び給う愛と恵みに生かされている僕(しもべ)は、人生の最高の価値観を感じております。・・・
続いて【私の好きな讃美歌】から
わたしの好きな讃美歌は、・・・「さまよう人々 たちかえりて あめなる御国の 父を見よや」(です)。戦時中、南方の第一線に従軍し、絶望のどん底にありながら、生きる希望を夢見、多くの戦友を亡くした悲しみと、幾多の困難に耐えた教訓を忘れることができません。寂しい時、かなしい時、嬉しいよろこびの時、私には何時も復活の主が共におられ、恵み、励まし、慰め、一日一日を生かして下さるから、讃美せずには歌わずにはおられないのです。
 「信仰の道に入ることになったのは・・・不幸か幸福になるかの最良の選択だった」と父は書いていますが、この最良の選択は父ばかりではなく、息子の私にとっても同じ意味を持っていたのです。牧師でありながらも、3人の子供たちになおその最良の選択をさせられないでいる私(一人は洗礼をうけましたが)ですが、日々祈り続けている願いではありますので、いつの時にかなえられると信じています。
さて、母が保健室の教諭をしていて忙しくしていたので、私は小学校に入学するまで4年間教会付属の幼稚園に通っていました。教会と幼稚園が父の職場の近くだったので、毎朝父の自転車に乗せられ、そして日曜日はこれまた父に連れられて礼拝に出席していました。
何歳位のことだったのか、礼拝で司会をしていた父が司式者の席に座りながら、牧師が祈祷をささげている間頭を垂れていた姿をかいま見て、なぜか心が打たれたのを覚えています。それは、父というよりはひとりの人間として、神の前に頭を垂れている者の姿でした。幼い子供ながらに、これが信仰なのかと感じ取った瞬間だったのかも知れません。信仰とは、父も母も子もなくすべての人間が神様の前に等しく頭を垂れる時を与えてくださるものです。その幸いを思います。
 ではまた次号へ続く。

2022/5月号 月報より

月報のこの欄は、いずれ掲示板に掲示されて道行く人々にも読んでいただくことになるでしょうから、まずは福島教会に新たに赴任した牧師は、どのような人物なのかを皆さんに知っていただく機会といたしましょう。
いろいろと脱線しつつ記しますので、何回かに分けての掲載となるやも知れません。 さて、私は1956年(昭和31年)の7月17日に、秋田県の湯沢市という小さな地方都市で生まれました。この福島教会に赴任して嬉しかったことの一つには、教会の目の前を通っている国道13号線は、まっすぐに郷里である湯沢市につながっている国道だということです。13号線は湯沢市の真ん中を貫いているなつかしい道路です。上野駅のホームから北に向かう線路にはるか故郷を思うように、私も目の前の13号国道から故郷をなつかしみます。
ところで、私の生まれた7月17日という数字は、実は旧約聖書の中にとても大事な数字として出てくるのをご存じでしょうか。旧約聖書の創世記8:4に「第7の月の17日に箱舟はアララト山の上にとまった」とあるのです。箱舟とは、皆さんもお聞きになったことがある「ノアの箱舟」のことですが、長く続いた大洪水がやっと水が引き始めて、箱舟が陸地に初めてたどり着いた日がこの7月17日なのです。人類が大洪水を生き延びて新たな歩みを始める記念日です。ちなみに7と17は最近人気の「素数」の組み合わせです。私はずっと自車のナンバープレートにもしているのです。
またまた脱線ですが、これは、いろんな企業人が言っておられることのようですが、ナショナルの創業者である松下幸之助さんが、人を採用しようとして迷ったとき、「あなたは幸運な人ですか」と尋ねたものだと、ある本で読んだことがあります。そういうことで言えば、私は幸運な人間だと思っていますし、クリスチャンになるということは神様から幸運をいただける者になったということだと思うのです。そんなすばらしいチャンスがあるのに、みすみすそれを逃すのはもったいないことではありませんか。
そういえば、私が幼稚園位のときに、その当時はまだお風呂は石炭釜でわかしていたのですが、ススが煙突に付くので定期的に煙突掃除が不可欠でした。釜の前に新聞紙を張って、ススが撒き散らないようにします。その日は残り火がまだ残っていたのでしょう。私がちょっと台所に行った際に、新聞紙に火が燃え上がっているのに気づきました。あの時私が台所に行かなければ、家は火事になっていたに違いありません。ですから、私はあの家にとっての幸運なのだと勝手に思っているのです。ですから、きっと福島教会にも何か良いことが与えられに違いないと思っているのですが・・・。
7月17日に湯沢市で生まれた事から少しも話が進んでいませんが、父は地元の小さな土建会社の事務員を、母は若い頃は大学病院の手術室の看護師でしたが、私が生まれたころは、保健室の教諭(養護教諭)をしていました。
父は、戦前の多くの方がそうであったように、なかなか大変な生い立ちをして、両親のどちらかが在日朝鮮人の方であり、一緒にあるとき朝鮮に行ったもののその後ひとりで帰国して、生計をたてていたと聞きました。そんな父は、晩年の数年間は認知症になり98歳で召天しましたが、ある時父の親戚に当たる人が突然母を訪ねてきたそうです。その頃父は施設にお世話になっていたので、母は別段会う必要も感じず断ってしまったそうですが、それを後悔していました。母はなお96歳で郡山で元気にしておりますが、元気なうちに父のことや母自身のことを聞いて記録に残しておきたいと思っています。皆さんもぜひそうなさったらいかがでしょうか。今回はこのあたりに致します。
また次号で。

福島 純雄牧師

2022/4月号 月報より

「文は人なり」と言う。どういうことだろうか。文章はその人しか書けないものがあると受け止めたい。理由は文章にはその人なりの文体があるからではない。夏目漱石の文体とか芥川龍之介の文体のようなものはその作家独自のものとしてある。それは認める。しかし、「文は人なり」とは「文章にはその人の文体あり」とは違う。
日本エッセイスト・クラブが編纂した『エッセイの書き方』を読んだ。こんな言葉が記されている。
「エッセイとは、その人でなければ書けないものです。その人でなければ書けないものと言えば、小説だって詩だって戯曲だってそうではないかと思うでしょう。ですから、その人でなければ書けないものから小説と詩と戯曲を除いたものがエッセイだと思えば、一応片付きます」。
文学作品の中でエッセイだけが、その人でなければ書けない理由は何かと考えてみた。高橋玄洋の『感性が光る文章の書き方』にはこう書かれている。
「美しい文章を書くにはいい生き方をするしかない、と言ってきました。(略)さらに言えば、否定どころか何の意識もなく漫然とその日その日をすごしている人は、生きているとも言えないのですから、その文章に魅力や価値があろうはずもないのです。時に相手を攻撃することに終始したり、自分の主張ばかリを述べている文章に出会う時があります。が、こういう文章を書く人は、根本的にその「生き方」に問題があるのです」。
美しい文章をエッセイと置き換える。するとエッセイを書くためにはいい生き方をすることが求められるとなる。いい生き方はその人の独自の生き方でありあの人この人の生き方とは違う。とすれば他の誰でもない、自分の生き方そのものがよいエッセイを書かせる力になるのではないか。『感性が光る文章の書き方』にはこんな言葉もある。「いい生き方なんていろいろあるわけではありません。(略)何事にも誠実に、逃げないで積極的に生きる。この一語につきると言って過言ではないのです」。
2016年春に福島教会へ赴任して6年間毎月発行される月報に「牧師室より」を書いてきた。今回で最終回になる。私が書いてきた「牧師室より」は私のエッセイと考えていただきたい。だからいま述べてきた考え方に立つならば、この文章はエッセイだから私にしか書けない私の独自の生き方が述べられている。他の教会の礼拝で語った説教についてもある時「先生からしか聞けない話を聞きました」と言われたことがある。特に自分の体験談を語ったわけではない。日常の生活の中で何気なく考えたことを語っただけである。また、ある牧師からは「文学ですね」との感想の言葉をいただいた。むしろ、文学と広く言うのではなく狭くエッセイのようですね、と言って欲しかった。それなら納得できる。「文学ですね」では広過ぎる。小説を含む文学との言葉は「フィクション」と考えられる面がある。そうであれば、説教はフィクションでもあって虚構になる。それは違う。説教は虚構ではなく生き方である。だから小説も含む広い意味で「文学ですね」と言われないように願う。
今回の月報で「牧師室より」は最終回。「文は人なり」についての私の考える所を書かせていただいた。長い間読んでいただいとことに感謝する。一人の牧師として、一人の礼拝者として、3人の子どもの父親として、時には東北教区の議長として、教区の「放射能問題支援対策室いずみ」の室長として、登山を愛する一人の人間として「何事にも誠実に、逃げないで積極的に生きる」との言葉を心に刻みながらエッセイとしての「牧師室より」を書いてきた。ここで書かせていただいた文章は私の生き方である。最後に聖書の言葉を記したい。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。(フィリピの信徒への手紙3章12節)
保科 隆牧師

2022/3月号 月報より

牧師隠退を前にして振り返ると1974年から1978年までの4年間を生まれ育った東京で神学生として過ごした。26歳から30歳まで。その間、主日礼拝だけでなく毎週木曜日の午後7時からの祈祷会、土曜日は会堂清掃に通った教会は山手線の目白駅から徒歩で10分ぐらいの所にあった。名前は武蔵野教会。牧師は、熊野義孝、熊野清子という夫妻だった。当時、二人とも70歳代ではなかったか。二人はすでに召されている。 熊野義孝先生は武蔵野教会の牧師でありつつ、私が学んだ東京神学大学の組織神学の教授でもあり『熊野義孝全集』などの著者でもある。3月末の引っ越しの前にと思い全集の別巻Ⅱを読んだ。1961年3月に「卒業生諸君に」と題して、東京神学大学学生新聞に書いている。

「諸君は自分の弱みを他に転嫁してはいけない。伝道牧会の困難は日本という土壌がキリスト教に向かないとか、日本人の心性がどうだとか、さては教会が大企業化されなければダメだとか、種々雑多な原因らしいものを求めて、それに自分の弱みを転嫁してはいけない。そういう議論を軽蔑したまえ」

この言葉は驚きだった。熊野義孝先生の考えていたのはこのようなことだったのか。もし、このような考えに立つとすれば私が神学生になる前から生涯をかけて考えつづけて来たことは軽蔑の対象になる。伝道の困難を日本の土壌にあるとして簡単に片づけてしまう伝道者もいる。また、日本人の心性がどうのこうので伝道できないと嘆く伝道者もある。そういう意見はかっていた地域の牧師会などで耳にしている。しかし、それを軽蔑するとの見方は浅いのではあるまいか。もちろん軽蔑されてもかまわない。ただ、日本の土壌も日本人の心性も他人のものではなく自分の中にある。熊野義孝先生のように日本の土壌や日本人の心性を他人事にして考えるから「教会の大企業化」などと一緒にこの問題を考えてしまう。それは間違いである。私の先生であってもはっきりとこの点は間違いと言わなければならない。牧師隠退を前にそう思う
1972年4月2日のイースタ―の礼拝で洗礼を受けたのであの日から50年になる。この半世紀の間、何を考えてきたのか。聖書の福音から見た日本の土壌はどのようなものか、そして日本人の心性はどのようなものかを考えてきた。別な言い方をすれば自分自身を伝道の対象とし、生涯を求道者として生きることである。さらに言えば全能者なる神の前に立って異教徒として生まれこの国に生きてきた自分の信仰の在り方や生き方を問題化する。それはキリスト教の知識を人に伝えることでは終わらない、生き方の問題だ。
それに加えて日本伝道にはもう一つ大きな課題がある。日本で同じ神という言葉を用いても聖書が語り教会がその信仰を告白してきた神と同じ神概念ではないことだ。その課題に一人の日本人のキリスト者としてどう向き合うかである。相対性理論で知られる物理学者のアインシュタインがある時、新聞記者に「先生は神の存在を信じていますか」と聞かれた。即座に「君の言う神とはどのようなものかを定義してくれたまえ。そうすれば、わたしがそれを信じるかどうかお答えしよう」と言い、さらに「神が存在する」と言う者と「神は存在しない」とする者の間の対話は、この二人がこの「神」という語に同じ意味を与えていない以上、往々にして聾者どうしの対話となると言ったそうである。また、二人とも神が存在することを認めている時でも、必ずしも同じ意見であるとはかぎらない。この「神」という言葉は、それぞれの人によってたいへん異なった意味を持たされているからだ、と言ったという。日本伝道の課題はまさにそこにある。私が伝道者として特に地方伝道を担い歩み続けてきたものとして考えるのは、アインシュタインが語る「神」の概念が互いに違う中でも対話の可能性があると信じたい。聴覚障碍者同士の対話にならない道があると思うからである。
保科 隆牧師

2022/2月号 月報より

テレビ番組で毎週楽しみに見ているものがある。日曜日の早朝、午前5時からNHKのEテレ番組の「こころの時代」である。夏の5時はすでに明るい。冬の5時は真っ暗だ。しかし、夏でも冬でもほとんど見る。
12月に放送された番組では現在、京都精華大学の学長をしているアフリカのマリ生まれのウスビ・サコさんの話が放送され興味深かかった。サコさんは1990年に初来日をして1991年に京都大学に留学し建築学を学んだ。2001年には京都精華大学に就職し、2018年に学長に選出された。古都の京都の郊外に立つており現在3400人の学生が在学する。
大学の学長は通常の場合は学生を対象とした講義は持たない。サコさんはそうではない。学長室を開放して誰でも入ってよい空間にしていることなども含めてすべて開放的で例外が多い。自分の講義を二年以上受けた学生に必ず聞くことがある。自分を見た第一印象がどうだったか。学生たちはいろいろなことを書く。「黒」「マフィア」「金持ち」「アラブの石油王」「外国の人」など。学生たちが自分を見た印象は結局「自分の経験した範囲を出ることができない」とサコさんは言う。「外国の人」と言われれば確かにそうだが、それで終われば人と人の出会いは起こらない。
サコさんの話の中で一番印象に残ったのは人には影が必要だと、言われたこと。暑い夏に木の陰に入り人が休みを得て力を回復することと同じ原理だと言われる。暑さの中にあっても木に影があることによって人の心が癒され回復される。同じように人の心に影があるからこそ他の人を励まし慰める力を持てると言うことだろう。しかし、この考えは常識に反する。なぜなら人は心に影のない人間になれと教えられる。裏表のない人間になれも同じといえる。サコさんはそれに反対の考えだ。まさに例外の人物。ただそこには人を見る深い考えがあるように思われる。
カウンセリングを学んでいた時にこんな文章に出会った。夏に太陽の日差しを求めて海水浴に行く。その時にお金を支払って浜辺にパラソルを人は求める。一方で日差しを求めながら他方で日陰を必要とする。パラソルはもちろん日焼けをしないためと言われればそれまでである。しかし、よく考えてみると光を求めていることの中に影の必要がまとわりついている。カウンセリングとは「人の心が光と影の両方を求めることと深く関わることである」そのような文章だった。人の心とは何かを考えさせられる。人の心の影とは心の広さや奥行きや深さに通じる。心に奥行や深さがあるのでその場所にふれ人の心が息を吹き返すことが起こる。サコさんはそのことを語っている。
「モナリザ」を描いたレオナルド・ダビンチが「影は光よりも大きな力を持っている」と言った。影は物から光を奪うことができるが、光は闇を追い払うことができない。光のあるところにはどうしても影が生まれる。光の画家と呼ばれるレンブラントは光と同時に影を描く。光の画家は影を描く画家でもある。だから光を見るものは影の力の恐ろしさも知っている。
2022年の新しい年を迎えている。新しい年に新しい思いを持って聖書の冒頭の言葉を読む。「初めに、神は天地を創造された」とあり、続いて「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった」と書かれる。聖書では光は神が創造されたと記す。闇はそうではない。神は闇を創造していない。また神は光を見てよしとされているが闇をよしとされていない。ある学者はこのように言う。「暗黒についてはよしとさせていない。ここには、光に対する神のあらかじめ下された判断が示されている。暗黒もまた、光と同様不可欠のものではあるが、光だけが救済と呼ばれ得るのである」。暗黒すなわち闇も光と同様に不可欠のものとの言葉を忘れてならない。光のあるところには影もできる。だから心が光(救い)を求めるときに必ず影ができる。その気づきが信仰にかかわる。闇に負けない光がキリストであるとの信仰をもってこの一年を歩みたい。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1章5節口語訳)
保科 隆牧師

2022/1月号 月報より

牧師になって44年目。2022年の新しい年を迎えた。3月末には東京への引っ越しが予定されている。すでに以前から引っ越しの準備に取り掛かってきた。牧師になって何回引っ越しをしてきたかと数えてみる。最初は東京から関西への引っ越し。その時を1回目にして今回でちょうど10回目。振出しに戻るようにして東京へ帰ることになった。   一回一回の引っ越しには思い出があり、その一つ一つを語りつくすことはできない。一回目の引っ越しは神学校の卒業後、結婚して1年過ぎた時。荷物をトラックに積み終えたその日、夜の東京駅発の夜行の寝台急行で一人の赴任だった。せっかくの寝台車なのに大阪駅まで一睡もできなかった思い出がある。
関西で生まれた子は1人。北陸の高岡で生まれた子は2人。多くはその3人の子たちと共に引っ越してきたので時期としては3月下旬が多かったがそれ以外の時もあった。子どもに引っ越すことを伝えるときは気を遣う。「友達がいなくなるよ」と言って泣かれて反対され「親たちだけでいけばいいよ」と言われたこともある。親からすると務めは牧師だから教会はどこへ行っても同じ礼拝を守っていけばよいとの思いがある。しかし、子どもの立場で考えてみると引っ越すと人間関係を含めてすべてが変わってしまうことになる。「いやだ。行きたくない。」との反応は当然のことだろう。
ある牧師から娘が高校3年であと一年過ぎれば卒業なので一年間だけ教会員の家に住まわせてもらい親二人は予定通りに3月末に任地へ赴任したとの話を聞いた。その牧師の場合は山形から福島への転任で距離が近いと言えるかもしれないがその判断がよいかどうか意見の分かれる所である。牧師がある特定の人とだけ特別な関係を持つことはいろいろな問題を含む。どのような問題を含むことになるのかまでは触れないでおこう。教会とは何かとの問いへの答えにも関係することと思われる。聖書の書かれた時代から伝道者とその周辺にある人たちとの関係はいろいろな課題がある。例えばパウロのような人でさえ彼自身が書いた手紙の中で時には愚痴を言っているのではないかと思われるような言葉も語る。さらにはそんな日常的なことまで書いているのかと驚くこともある。テモテへの手紙二4章9節以下に次のように記される。 「ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガリラヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れてきてください。かれはわたしの務めをよく助けてくれるからです。(略)あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持ってきてください」。ここに何人の人の名前が出てくるでしょうか。デマス、クレスケンス、テトス、ルカ、マルコ、カルポの6人です。全員が伝道者パウロの近くにいた人ですがその生きざまは様々です。デマスについては、この世を愛し、私を見捨ててギリシャの町のテサロニケへ行ってしまったと言います。デマスはパウロにとって嘆きの対象です。それが現実の教会です。ただの愚痴でありません。
しかし、ルカだけがわたしのとろろにいると書きます。福音書を書いたルカです。トロアスのカルポのところに置いてきた外套と書いているのは忘れてきたのでしょう。自分の忘れ物をテモテに持ってきてほしいと願っているのです。パウロでも忘れ物をするのです。パウロと言えば「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)と言う言葉を語った人です。雲の上のような人だと思います。違うのです。カルポの家に忘れ物をしたので弟子に持ってきてほしいと頼んでいる人です。また、デマスが「この世を愛して、私を見捨ててテサロニケに行ってしまった」と言って嘆く人です。旅と引っ越しに明け暮れたパウロの姿が思い浮かばないでしょぅか。
保科 隆牧師

2021/12月号 月報より

福島教会の礼拝堂に入って上を見上げる。天井の横は東西南北の四方に光とりの大きなガラスがはめ込まれている。この礼拝堂に四季折々の差し込む光の変化を見つめながら5年半の日々を歩んできた。礼拝堂のすぐ隣に住んでいるので感謝なことに一日また一年の間の東西南北の光とりから差し込んでくる光の変化を見ることができた。それは、「その一瞬」にそこにいなければ見ることができない光の光景である。 北陸の富山県にいた頃に県東部の魚津海岸に蜃気楼が見えると言う話は聞いていた。毎年6月ごろに立山連峰の雪解けの冷たい水が川から富山湾に流れ込む。そして海水温が冷やされる。そのなかで海面のすぐ上の気温がその日の天気によって高くなった場合にその温度差によって魚津海岸では海に蜃気楼が見えるそうである。富山県に住んでいたころに魚津には何十回と行ったことはあるが蜃気楼をとうとう一度も見ることは出来なかった。蜃気楼を見るためには蜃気楼が見えるときに魚津の海岸にいなければならない。仮に蜃気楼が見えたとしてもすぐに消えてしまう。まさに蜃気楼を見るのは千歳一遇と言うべきである。 それと同様に福島教会の礼拝堂の四季折々の光の変化を見届けるのは千歳一遇である。その瞬間にいなければ見ることは出来ない。例えば朝日が東側のガラスから説教壇の上を照らしているときがある。ほんの短い時である。朝日が昇るにつれて差し込む場所が変化する。今度は逆に夕日が西側のガラスを通して礼拝堂の全体を照らす時がある。夕方なので集会室はすこし暗くなっている。ところが礼拝堂の中は夕日を浴びて明るい。思わず電気がついているのかと勘違いすることもある。礼拝堂全体に暖かいやわらかな光が差し込む。そして静かである。夕方の静けさは朝の静けさとは違う。この静けさと夕日の明るさの中で礼拝が守れるのなら、なんとさいわいかと思わされる。まさに自然の光がもたらす芸術である。この光は人工的に作られたものではない。小河信一『聖書の時を生きる』ヘブライ人の時間間隔を読んだ。こんなことが記されていた。 「そして、主に知られた唯一の日がある。昼も夜もない。その日には夕暮れに光がある。(ゼカリヤ書14・7私訳)これは『主の日』の記述で、この日には終末において神が来臨される日とみなされています。まことの光が差し込む、主が来たりたもう、そのことが開示される。それが夕方なのです。」さらに次のように続ける。日本聖書協会の口語訳や新共同訳の「夕べになっても光がある」は適訳とは言えません。これでは、昼の日差しがまだ残っている、という感じになります。この日には、大変化が起こります。夕暮れになったときに、この大異変は明らかになります。私たちの単調な日々の根底に、この大変化が起こる時があるのです。 最近に出版された聖書協会共同訳でゼカリヤ14章7節を見る。「夕暮れ時になっても光がある」となっている。つまり口語訳や新共同訳と同じである。ところが日本聖書刊行会が出している新改訳は小河が言うように「夕暮れ時に、光がある」と訳している。たしかに「夕暮れになっても」では昼の明るさがそのまま残っているとの感じは否めない。そうではなくて夕暮れには大変化が起きる。だから夕暮れにこそ本当の光があるとの思いを込めて「夕暮れ時に、光がある」と訳すべきとの考えはヘブライ人の時間感覚を考慮に入れたものと思われる。ヘブライ人は夕方から一日が始まると考えていた。 コロナ禍のなかで教会の礼拝が様々な形をとっている。リモート配信で守る礼拝もかなり多い。しかし、その時にそこにいなければ見えないものがある。朝日が説教壇にあたる一瞬であり、魚津海岸の蜃気楼である。同じように礼拝も教会に集まりその時そこに会衆と共にいなければ見えないものがあり、聞けない言葉があると思われる。そのような千歳一遇を大切にしていきたい。 保科 隆牧師

2021/11月号 月報より

昨年の初めごろから一年半以上も続いている新型コロナウイルス感染拡大の中で福島教会が毎週休むことなく守り続けている定期集会がある。主日の午前10時30分からの礼拝と木曜日の午前10時30分からの祈祷会。さらに加えて主日の午前9時40分からの信仰入門講座の三つである。それでも昨年4月から5月にかけては日本全国にウイルス感染に関する緊急事態宣言が出されており、主日礼拝を家庭礼拝に切り替えたり、祈祷会を休んだりしたこともあったが、それも何回かで終わりその後は今日まで三つの集まりは休まず続けている。 信仰入門講座は、教会学校が行われていた時間帯を引き継ぐ形で主日の午前10時40分から20分間に限って行われている。私が新しく始めた集会である。だいたい月単位でテーマを決めて学びの機会を持つ。現在はキリスト教の教派について取り上げている。出席者からぜひ教派について学びたいとの声があったからである。出席者は木曜日の祈祷会とだいたい同じぐらいであるが、信仰入門講座の方が多い時もある。いつも10名近い出席者が与えられている。 現在取り上げているキリスト教の教派の学びは自分のためにもよい学びの機会である。教会史の知識が70歳をかなり超えている年齢になって整理されていると思われる。いい加減なことを語るわけにはいかない。参考にしている文献はキリスト新聞社から出版されている『よくわかるキリスト教の教派』というもので、徳善義和と今橋朗の共著である。信徒向けにやさしく書かれたものと言ってよい。最後の第6章は二人の対談になっていて「伝統的な教派の職制について」記される。第4章は「教派」がなぜできるのかで、とても興味深い。こんな言葉が記されていた。 [「教派」と言う言葉は比較的新しい言葉です。後で触れるように、これは16世紀の宗教改革以後、プロテスタント教会の中で次々に生まれてきた運動の結果として成立した教会的なグループのことを呼ぶ名称ですが、既に教派が形成される以前に、教会自身、あるいは信仰の共同体は、様々な意見の相違や、信仰の理解についての強調点の違い、あるいは地域性などにより「教派」の形成にまで至らなくても、聖書の解釈、信仰の理解においていろいろな多様性を含んでいたことは、当初から見ることができるのです。] 確かに聖書を読んでも、マタイによる福音書3章7節に「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て」と記されている。ファリサイ派、サドカイ派のどちらも当時のユダヤ教の内部のグループである。考え方がどのように違うかは別にして主イエスの先駆者として神が遣わされた洗礼者ヨハネのもとにやって来てヨルダン川で洗礼を受けたと福音書は記している。教会史的には16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会内部のグループを「教派」と呼ぶにしても、それだけではなく聖書の中にすでに律法についての考え方の相違などがあり、そこからユダヤ教内部に「分派」が生まれていたことが推測される。私などはキリスト教の教派とは全く別な視点から仏教の「宗派」との違いはどのようなものか、と考えてしまう。 「宗派」と言う言葉だが、日本で最初に横浜で誕生したプロテスタントの教会は教会とは言わず「公会」と名乗った。1975年に日本基督公会条例を定めている。その第二条例に次のように書かれている。「我輩の公会は宗派に属せず唯主耶蘇キリストの名に依て建てる所なれば、単に聖書を標準とし、是を信じ、是を勉る者は、皆是キリストの僕、」ここには教派と言う言葉ではなく宗派と言う言葉が用いられる。使徒信条なども使徒信経と読んでいた。仏教を意識して宗派にしたのかもしれない。最初にプロテスタント教会を日本に立てることを願った人たちの思いがどこにあったのかを知る手掛かりになると思われる。 保科 隆牧師

2021/10月号 月報より

古い建物の大原総合病院で手術を受けてから長く自制していた夏山に登ってきた。8月上旬に午前中の早い時間を使ってさっと登って降りてきた。すいていた。栃木県の那須連峰の中心にある那須岳(茶臼岳)である。初めて那須岳に登ったのは1958年の7月。当時、小学5年生だった。学校行事の林間学校で那須の弁天温泉に宿泊した。何日間の滞在かは記憶にない。記憶にあるのは那須岳へ登っていることだ。山頂で写した写真が今も残されていて証拠品である。写真には父親の書いた文字で昭和33年7月29日の日付がある。一緒に登った同級生8人と担任の先生も写っていて、全員が笑っているのは、山頂までたどり着いた達成感かもしれない。弁天温泉からどんな登山道を登ったのか、何時間かけて登ったのか何も覚えていないが、今回登ってみて弁天温泉からかなりの距離があることが分かった。 林間学校から時は流れて63年。那須岳に登るのはその時以来で二度目。すっかり変わった那須岳周辺に驚くばかり。今は車で走ると東北道の那須インターを出て直進で那須湯本を目指して走り、すぐに那須岳山麓のロープウエイの登リ口に到着する。大きいゴンドラに乗れば5分で1684メーターの山頂駅。1917メータの山頂までの距離は1、1キロの登り。登山の所要時間は40分と言うところだろうか。40分で山頂では登山したというべきでないだろう。午前6時からほとんど休むことなく12時間登り続けた北アルプスの槍ヶ岳のような山もある。 さて、63年前に那須に行くときは、東京の上野から宇都宮まで電気機関車に引っ張られる客車。宇都宮からは黒磯まで蒸気機関車に引っ張られた。蒸気機関車は窓を開けると石炭のすすが飛んでくるので顔が黒くなってしまった。そんな時代が60年前にあった。新幹線の列車の旅では味あうことは出来まい。時代が違うのだ。駅のホームには「弁当、弁当」と肩からの紐をつけた弁当売りが何人も来ていた。あの懐かしい弁当売りの声は今どの駅に行けば聞けるのだろうか。 どの山でも登るときは必ず開く本がある。深田久弥の『日本百名山』である。いつかどこかの山小屋に泊まったときに深田の『日本百名山』に載せられている山のすべてに登ることを目標にしている登山者に出会った。是非とも百名山を登り切ってほしい。北は北海道の利尻岳から始まり南は屋久島にある宮之浦岳まで全部で百の山が記される。深田はこの百の山のすべてに登ったうえでこの本を書いた。さらに深田は世界の尾根のヒマラヤ山脈にも登っている。深田には『日本百名山』の他に『ヒマラヤの高峰』という大著があり、ヒマラヤ山脈の7000メーター以上の山々がよく調べられ紹介されている。 山に登りながら旧約の詩編121篇1節以下を思い出す。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」この詩には「都に上る歌」や「宮もうでの歌」の表題がつけられる。都はエルサレム。エルサレムには宮がある。だから宮もうでになる。宮のある町は標高800メーターの山の上。初めてエルサレムの町に入ったのは夕方だった。エリコの方からエルサレムへバスで入った。夕日を浴び赤く染まるエルサレムの町は美しかった。町の東側に立つオリブ山から見たエルサレムを黄金のエルサレムと呼ぶが、それはかってソロモン王が建築したエルサレムの神殿のあった場所に、今は黄金色に光るイスラム教のモスクが建てられているからである。 山を見上げながら宮に詣でる人たちは問う。「わたしの助けはどこからくるのか」。エルサレムの宮の祭司が答える。「天地を造られた主のもとから」。63年ぶりに山頂に立った那須岳には山の神を祀る小さい祠があった。祠は日本の山の山頂にはどの山にもある。その山の神を祀る祠だ。助けは山の神でなく「天地を造られた主のもとから」これは祭司が語る言葉であるとともに私どもの信仰告白である。 保科 隆牧師

2021/9月号 月報より

テレビ番組でよく見ているものは何かと考える。俳句の夏井先生の見事な添削にいつも驚く「プレバト」も見ているが、やはり天気予報が一番だろう。一日に朝昼晩と見ることもある。自宅のテレビに限らない。どこかの町のホテルに宿泊した時にテレビをつける目的は天気予報を見るためである。天気予報を見るとしみじみ思うのは、当たり前のことだが九州へ行けば九州の天気予報。四国へ行けば四国の天気予報を見る。旅に出て天気予報を見れば改めて自分が今どこにいるのかを知らされる。旅先で「プレバト」を見てもそれはない。ドラマや懐かしい映画を見ても起こらない。映画などはどこで見ても全く同じ映画である。しかし天気予報は違う。自分の今の居場所がどこか分かる。 天気予報は地域の分け方があり番組によって大雑把な分け方と細かい分け方がある。例えば東北6県の天気予報を考えてみよう。福島県と言う場合に福島県のどこの地域の予報なのだろうか。ただ福島県では分からない。また浜通り、中通り、会津の三地域に分けたとしても中通りの北部と南部では時により天気はかなり違う。したがって、福島県の予報だから自分がいる所と考えると予報が当たらない場合もある。 世界中を旅しながらある国で面白いことを聞いた。イスラエルで日本人のガイドが言うには、日本のように「今日の天気は晴れです」や「雨です」とかはイスラエルでは言わないという。なぜならその季節は毎日が晴に決まっているからだという。だから今日の気温は何度まであがります、と気温しか言わないらしい。世界は広い。どこの国の天気予報も毎日のように「晴」や「曇り」や「雨」や「雪」などと言っているのではない。日本にしか住んだことがなければ分からない。世界中の予報の仕方が皆同じと思ってはいないだろうか。 だから人に対して「こんなことも分からないのか」と言って腹を立ててはなるまい。分からないものは分からない。天気予報は気温しか伝えない国に行ってみて「なるほど」それでは晴やくもりの予報が必要ないと分かるしかない。ある国では当たり前のことでも別の国では当たり前でないこともある。ミャンマーでは「民主主義」という言葉がないと聞いている。言葉がないのだからそのような内容もないのである。 来年の春の引っ越しに備えてすでに本の整理を始めている。一冊一冊が何度も引っ越しをする中で古本屋に売られず、ゴミに出されて捨てられることもなく厳選されたうえにさらに厳選されて今も残っている。中学生の時に買った本もある。それ以後それらの本と共に何度も引っ越しをしてきた。これをさらに減らすのは至難の業である。どの本の背表紙を見ても「自分を手放すつもりか」と言われそうである。手放す前にと思ったわけではないが、アウグスティヌスの『三位一体論』を手にした。『三位一体論』には挿絵がついている。それは、小さな子どもが柄杓で海の水をタライに移そうとしている姿の絵である。これはアウグスティヌスが自分をこの少年に喩えていると言われる。つまり神の三位一体を論じるのは海の水を柄杓でたらいに移すのと同様に愚かなことであると分かっていた。神の三位一体は神の本質であって人間の言葉では表現できないこと知っていて、それでもこの書物を書いた。 こんなことを考えてみた。小さな柄杓でも海の水を少しだけはたらいに移すことは出来る。その考え方は間違っていない。しかし、この少年は海の水がどれだけの量なのか、その量は果たして柄杓でたらいに移せるのかについて分かっていない。だから少年は愚かなのである。つまり、この少年のしていることは間違ってはいないが、愚かなのである。聖書が記す「愚かの金持ちのたとえ話」も同じである。(ルカ、12章13節以下)長年分の食料を倉にため込んで安心することはよいとしょう。しかし、自分の人生が明日にも終わるかもしれないことが分かっていない。金持ちは愚かである。愚かは自分で気付くしかない。 保科 隆牧師

2021/8月号 月報より

昨年以来の新型コロナウイルス感染が今も全世界で収まっていない。7月に入ってすぐに一回目のコロナワクチンの集団接種へ行ってきた。接種後に副反応があるとは聞いていたが確かにインフルエンザワクチンを打った時とは違う。15分間接種会場の椅子に座り「休んでからお帰りください」と言われて休んでいる間に気分が悪くなってきた。頭がふらつく。会場から教会まで気分が悪いのを我慢しながらゆっくり歩いて帰ってきた。幸いにして注射した腕の筋肉痛や熱は殆どでなかった。 ワクチン接種以前に日本を代表するウイルス学者の山内一也の『ウイルスの意味論』を読んだ。ウイルスと細菌の違いも含めてウイルスについて多くのことを教えられる。第1章は次のような書き出しである。 {ウイルスは、ウシの急性伝染病である口蹄疫とタバコの葉に斑点ができるタバコモザイク病の原因として、19世紀末に初めて発見された。それから半世紀あまりの間、ウイルスは微小な細菌と考えられていた。 実際にはウイルスと細菌は全く別の存在である。細菌をはじめとするすべての生物の基本構造は「細胞」である。細胞は、栄養さえあれば独力で二つに分裂し、増殖する。このようなことができるのは、細胞がその膜の中に細胞の設計図(遺伝情報)である核酸(DNA)やタンパク質合成装置(酵素)を備えているからだ。 一方ウイルスは、独力では増殖できない。ウイルスは、遺伝情報を持つ核酸と、それを覆うタンパク質や脂質の入れ物からなる微粒子にすぎず、設計図に従ってタンパク質を合成する装置は備えていないからだ。しかし、ウイルスは、ひとたび生物の細胞に侵入すると、細胞のタンパク質合成装置をハイジャックしてウイルス粒子の各部品を合成させ、それらを組み立てることにより大量に増殖する。そのため、ウイルスは「借り物の生命」と呼ばれることもある。} ウイルスは山内さんに言わせると「借り物の生命」である。細胞のように分裂を繰り返して生きることができない。だから生物の細胞の中に入りこんできて、タンパク質合成装置の酵素をハイジャクして生きている。人間の体に入り込み細胞を借り物にして増殖している。これまではコウモリを宿主として増殖していたが、最近になって人間も宿主にするように変化した。人間がどこかの国で自からコロナウイルスを引き込んだとしか考えられない。その結果、全世界へ広がり毎日のようにマスコミをにぎわせている。コロナウイルスはコウモリを宿主として1万年も生きていたそうである 毎年のように感染者が出るインフルエンザウイルスは鳥を宿主としていたウイルスが鳥だけでなくブタ、ウマ、アザラシ、クジラを宿主とし地球規模に広がった感染症である。また、今回大流行したコロナウイルスがコウモリとともに1万年も生きてきたと言って驚いてはならない。ウイルスが地球に現れたのは30億年前と言われる。人類の祖先は高校時代に世界史の教科書で学んだがネアンデルタール人とかクロマニヨン人と呼ばれるような人たちで25万年前から20万年前に地球に現れたと言われる。人類の誕生はウイルスの誕生に比べたら比較にならない短さである。 今、木曜日の午前に守られている祈祷会で旧約のコヘレトの言葉を学んでいる。「空しさ」(1章2節)原語は「ヘベル」と言う言葉が全体で38回も用いられる。この言葉を「束の間」と訳している学者がいる。ウイルスの30億年の生命の長さを考え人類の20万年あまりの生存の長さを考えると「コロナウイルスに勝利した証としての東京五輪を開催する」などと言っていた政治家の言葉がいかに空しいものでウイルスの怖さを知らないかがよく分かる。今回のウイルス感染症の全世界的な拡大を是非神学の問題としても考えてみたいものである。 保科 隆牧師

2021/7月号 月報より

2011年3月の東日本大震災からちょうど10年2か月が過ぎた日、三陸海岸の津波の被災地の復興の様子を見てくることを思い立ち車で午前5時に教会を出ました。外はすでに日が昇り明るくなっています。復興道路として国が三陸海岸に整備した三陸道を始めて走りました。全線が開通しているようです。この道路を利用すると以前福島教会の牧師だった佐々木栄悦先生が今年の4月から赴任された登米教会まで早く行けるように思いました。登米にインターができているからです。全区間どこまで行っても無料です。三陸海岸を走る以前の道は国道45号線しかありません。新しい三陸道はその道より山側を走る道路になっていました。そのために三陸の海はほとんど見ることができません。海が見えないことにしびれを切らして三陸道を走るのをやめて気仙沼を過ぎてから陸前高田インターで国道45号線に出ることにしました。すると最初に目に入ったのが国立の施設「東日本大震災津波伝承館」です。海岸線の前に津波で流されてなにもない広大な土地の中に立つ施設です。隣には道の駅高田松原がありました。車を広い駐車場に止めて伝承館のなかに入ろうとしたのですが午前9時の開館前なので入ることができません。帰りの道で寄ることにしてひとまず海岸沿いの国道45号線を大船渡から釜石まで走ることにしました。 「この道はいつか来た道」という歌があります。まさにその通りでまだ震災前に仙台から当時、大船渡教会にいた友人の牧師を訪ねてこの道を走ったことがあります。三陸海岸を曲がったり登ったり下ったりする道でした。大船渡教会の近くを通ったような気もしましたが分からないうちに通り過ぎてしまいました。大船渡を訪ねた時に大船渡教会は新会堂を立てたばかりでした。彼は震災前に転任しておりませんでした。鉄の町の岩手県釜石市は初めて訪ねました。「鉄の博物館」を訪ねたいと思いましたが行ってみると休館でこの施設も入ることができません。残念です。JRの釜石駅前も通過しました。釜石といえば新日鉄釜石のあった町です。ラグビーの強かったチームがありました。大学生のチャンピオンのチームが日本選手権で何度戦っても勝つことの出来ない相手でした。赤い色のジャージのユニホームは新日鉄釜石の強さのシンボルのようなものでした。 釜石の街中のスタンドでガソリンの給油をしながら空を見上げると急に曇りだしました。北へ宮古からさらに先まで三陸道を走るのをあきらめました。再度、三陸道に出て陸前高田へ戻ることにしました。釜石に来るときに開館前で見学できなかった「東日本大震災津波伝承館」に行きました。11日であったためかそれなりの人が入っています。施設内にある海を望む場まで歩きました。海岸線に新しい防潮堤が作られています。近くに運動公園もあるようです。そして何より名の知られているのは「奇跡の一本松」です。伝承館からかなり離れた場所にあるので見に行くことは出来ません。約7万本もあった松の木の中でただ一本だけ大津波の力に耐えて生き残りました。なぜ他の木がすべて流されるか倒されてしまった中で一本のこの木だけが残されたのか不思議です。  聖書を開きます。創世記6章以下に記されるノアの洪水の物語です。ノアの洪水はなぜ起こされたのでしょうか。神が、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6章6節)からです。そして、「これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。しかし、ノアは主の好意を得た。」(6章7節、8節)と書かれています。ノアの得た「主の好意」とは何でしょうか。ノアの選びです。洪水の中からノアが箱船に入ることによってただ一人生き残ることが、洪水が起こる前に示されています。主の好意です。もちろん洪水の後に生き残ったのはノアの家族や生き物たちがいるのですが、それもノアが作った箱船に入って生き残ったことを忘れてはなりません。奇跡の一本松を思いながらノアの洪水の意味を考えてみました。 保科 隆牧師

2021/6月号 月報より

我が家には1977年3月の結婚以来、今でも使い続けているものがある。そのすべては結婚のお祝いとして友人や知人からいただいたもの。例えばグラタン皿。最初は3枚あったが一枚は割れてしまい現在は2枚が残っている。食器としては陶器の大皿のようなもの。それから耐熱ガラスの鍋もそうだ。鍋は今でも現役である。よく使っている。 もう一つ奇跡の置時計と呼ぶようになったものがある。縦20センチで横は28センチある。奥行きは10センチほどの木製のもの。富山に住んでいたころや東京の多摩市や日野市に住んでいたころはピアノの上に置いてあった。多摩に住んでいた時に地震の揺れでピアノの上から床に落ちて文字盤の前のガラスが割れてしまった。 その後は、静岡にいた時も仙台にいた時も食器棚の上に置いておいた。文字盤の前のガラスがないにもかかわらず、また秒針にほこりがつくようになっても動いていた。福島に来てからこの置時計とも別れの時が来たかと思ったことがある。今年の2月13日(土)の夜の福島県沖地震である。震度6強の揺れのために他のものと一緒になって食器棚の上からフローリングの床に落ちてきた。落ちた衝撃で時計の中の電池は外に飛び出して11時8分あたりを指したまま動かなくなった。これで壊れたと思い、しばらくは11時8分を指したままの状態で記念品のように家の片隅に置いておいた。時が経過して修理に出せないかと思い時計屋に聞いてみたところ40年以上も前の時計では部品もないし修理に出すのは無駄ですと言われた。それで一度あきらめた。ところが、4月になってから電池を新しいものに交換して止まっていた時計の針を動かしてみたところ動き始めた。この時計は不死身かと驚いた。それから奇跡の置時計と名付ける。 奇跡の置時計が動き出したのと同じころにアメリカのゴルフの大会のマスターズで日本の松山英樹選手が日本人として初めて優勝した。いままで何人もの名だたる日本人選手がマスターズに挑戦しても最高の順位が4位だった。松山自身は東北福祉大学の学生で19歳のときの2011年にこの大会に初出場している。東日本大震災があった年である。それから連続して10回出て最高位が5位、そしてようやくつかんだ今回の勝利である。マスターズ大会の優勝者にはグリーンジャケットといって緑色の上着が贈られる。また優勝者にはそれ以後の大会に毎回出場する資格があたえられるそうである。置時計だけでなく松山の優勝にも驚かされた。 さて、話を我が家の奇跡の置時計に戻す。もう動かなくなったと思った時計が動き始めた。そのことを思いながらパウロの語る次の言葉が思い出された。 「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、」(コリントの信徒への手紙二・6章8節、9節)ここでパウロは「死にかかっているようで、このように生きており」とコリントの教会の人たちに語り掛ける。死んだようであっても実は死んでいないということである。壊れたと思った時計も実は壊れていなかったのと同じである。さらに続けて「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(10節) ここでパウロは誰のことを物乞いといったり無一物と言ったりしているのでしょうか。 パウロ自身のことでもあり、キリスト者のことでもあるのではないでしょうか。死にかかっているようでもまたそうです。死にかかっているようでも死んでいない。まだ生きている。奇跡の置時計はだめになったようでまた動き出しました。我が家の食器棚の上で今日も動いている。ただ以前よりは遅れるようになった。44年間も毎日休まず動き続けているのだから当然のことではないでしょうか。奇跡の置時計を見るとパウロの語る「死にかかっているようで生きている」との言葉が思い出され励まされている。

2021/5月号 月報より

池田晶子の『14歳からの哲学』と『14歳の君へ』を読んだ。『14歳からの哲学』はこんな書き出しで始まる。 「君はいま中学生だ。どうだろう。生きているということは素晴らしいと思っているだろうか。それとも、つまらないと思っているだろうか。あるいは、どちらなんだかよくわからない、なんとなく、これからどうなるのかなと思っている、多くはそんなところだろうか」。 日本で哲学と言えば西田幾多郎や田辺元の名前が思い浮かぶ。西田の言葉は難解で知られる。絶対矛盾的自己同一や無の自覚的限定である。田辺は親鸞思想を中心にして書いた懺悔道の哲学が思い出される。しかし、池田の哲学は西田や田辺のような専門用語は使わない。平易な言葉を使いながら哲学を語る。だから西田や田辺の言葉とはまるで異なるエッセイ風の言葉の世界がこの本の中で展開する。相手にしている14歳の中学生に語り掛けるようにしているのが面白い。池田はガンを患い46歳で亡くなっているがエッセイ風の哲学と言うべき多くの著作を残した。 二冊の本を読みながら自分が中学生のころにどんな本に出合ったのかと考えてみた。今、振り返ると自分の人生を決定づけるような本に出合っている。フランスの数学者でありキリスト教徒のパスカルの書いた『パンセ』である。14歳か15歳かは分からない。はっきり覚えているのは中学生だったことである。立ち寄った本屋で偶然この本を手にした。読むつもりで買ったのではない。読みたいと思っていたフランスの哲学者デカルトと一緒に一冊の本の中にパスカルの『パンセ』が入っていた。何事でもそうかもしれないが決定的な出会いは偶然訪れる。それを振り返ってみると偶然の必然と思われる。本との出会いも人間との出会いもそうなのではあるまいか。70年以上生きてきてこれが偶然の必然と思える本や人との出会いがあって少しは物を考えるようになった。『パンセ』に記される「この世の生の時間は一瞬に過ぎないということ,死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠ということ」この言葉は身震いするような思いで読んだ。中学生の頭では批判する言葉を持っていなかった。読んだときに牧師になろうと思っていたわけではない。教会に行くことも夢にも思ってはいなかった。中学生での『パンセ』との出会いはその後の歩みに決定的な影響を与えた。  池田は『14歳からの哲学』の中で「思う」と「考える」とは違うという。こんな言葉がある。「思うというのは突き詰めていくと自分一人で正しいと思っているに過ぎない。考えるというのは、誰にとっても正しいことを考えていくことである。時には自分一人だけで考えていくこともある」。「思う」と「考える」には違いがあるとの考えは森有正の「経験」と「体験」の違いに類似する。森は、「経験」は未来に対して開かれているが「体験」は「経験」の一部が固定化して閉じられていると考える。森の哲学の独壇場である。 池田の本を読んでいてこの点は違うと思うところもある。宗教のところである。『14歳の君へ』の中に「一神教の考え方には、どうしても無理がある。人間界を超越した絶対的な神は、人間界を超越しているのだから、それが本当に存在しているかどうかは、実は人間にはわからないはずなんだ。本当に存在しているかどうかわからない、でも存在してくれないと困るから、だから人はそれを存在すると信じる。無理にでも信じようとすることになる。ここに、狂信や盲信や、戦争のもとになる勘違いも発生するというわけだ。」 キリスト教は宗教として考えればイスラム教と同じく一神教。イスラム原理主義者の考え方からテロリストが生み出されることによって示されるような狂信や盲信も宗教にはあるだろう。否定はしない。しかし、「神が存在してくれないと困るから信じる」は違う。池田は宗教を外から眺めるので宗教が分からない。その点では信仰を持たないで宗教をあれこれと論じている宗教学者と同じである。哲学者も宗教学者も同じと言うことか。

2021/4月号 月報より

毎週、木曜日の午前10時30分から教会で祈祷会が守られています。外に立てられている教会案内には「聖書を学び祈る会」と記されています。祈祷会は聖書を学びながら会に出席した人が神のみ前に静まりともに祈る時です。私が福島教会に赴任して4月から6年目に入ります。この5年間は私が担当した時は殆どの時間を費やして旧約の創世記を学びました。過去の週報を調べて驚きました。創世記1章1節から学び始めていますが一回目は2016年3月31日になっています。私の正式な赴任は2016年4月1日からです。しかし、3月31日にはすでに仙台の教会から福島教会へ引っ越していました。その日が木曜日になっていたので赴任前にもかかわらず牧師館に住んでいるものとして祈祷会を担当したのだと思われます。教会は会社でもないし役所でも学校でもありません。教会は「主キリストの体にして、恵により召されたるものの集いなり」(日本基督教団信仰告白)です。教会員が二つに分裂してしまったようなある教会へたびたび訪問をしてひたすら語ったのは、この教会の定義でした。恵みにより神によってお互いに召されている者が今ここに集められているのであって何かの権利義務の関係で成り立つ営利目的の集団ではありません。あまりにも当たり前のことと言うかもしれませんが、現実の問題として教会の中で紛争が起こったり混乱が生じたりするのは信仰の事柄を権利義務でしか考えられない場合もあるのです。 さて、およそ5年間をかけて1章から最後の50章まで創世記を学び終えました。2月18日の祈祷会から新しく旧約のコヘレトの言葉を学び始めています。今まで福島教会をいれて6教会で祈祷会を守りつつ聖書を学んできました。しかし、コヘレトの言葉を取り上げるのは今回が初めてです。日本語の聖書翻訳の歴史の中でこれまで伝道の書と訳されていたものです。文語訳でも、伝道之書でした。中国語の聖書が、伝道書になっているのでその影響を受けたものでしょう。口語訳の伝道の書から新共同訳が出て以後に「コヘレトの言葉」とは何ですかと教会員の方からよく聞かれました。その時は、コヘレトは旧約のもとの言葉のヘブライ語ですと語り、その意味は「集会を司る者」ですと説明します。集会を司るから伝道の意味が示され伝道の書と訳されていたのです。 コヘレトの言葉の本文から一つだけ取り上げます。1章2節です。新共同訳ではこのようになっています。「コヘレトは言う。なんという空しさ 何という空しさ、すべては空しい」口語訳は違いました。「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」このような「空しい」を「空」と訳す考えは口語訳以前の文語訳においても同じでした。新しい聖書協会共同訳においても同じです。どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。「むなしい」と訳されており「くう」とも訳されている元の言葉は「ヘベル」というヘブライ語です。コヘレトの言葉の研究者の一人、小友聡氏は「束の間」と訳します。ヘベルを時間の概念で捉えます。しかし、他の聖書では実にさまざまに訳されます。「無益」「空虚」「儚さ」「無意味」「不条理」「皮肉」「神秘」「謎」などです。コヘレトの言葉の中には「ヘべル」は38回使われていて、旧約の全体では73回使われているのでほとんどがコヘレトの言葉に集中していると考えられます。そう考えてみるとコヘレトの言葉を読むならば「ヘベル」をどのような日本語に訳すかが問題です。いずれにせよ小友氏のように「束の間」と訳すことと「無意味」や「不条理」と訳す場合では意味の違いが大きくあること認めざるを得ません。私としては「空」と訳すことには抵抗があります。仏教でいう「空」との違いが意識されないままで「ヘベル」を無常観や厭世観で受け止めてしまうからです。考えれば考えるほど「ヘベル」は日本語に訳せないので「ベヘル」で行くしかないでしょう。「アーメン」のように原語のままです。

2021/3月号 月報より

今年の3月11日で東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から10年を迎える。南相馬市にある小高伝道所の付帯施設だった小高幼稚園の職員室に入ると一か月の日程を記す黒板がある。今も震災当時のままの状態である。黒板には2011年3月の行事予定が書かれている。3月17日は卒園式の日になっていた。震災後に多くの方々をこの職員室に案内させていただいた。前任地の仙台東一番丁教会や福島教会に夏期伝道に来た神学生、教団の各種委員会の委員たち、他教区から見学に来られた方たち、東北教区内の方々。元教団副議長も案内した。案内するたびに言われたのは「時間が止まったままですね」だった。そのように考えると原発事故のために時間が止まってしまったかのように思える場所があるということではないだろうか。改めて原発事故がもたらしたものは何だったのか、と考える。強制避難や自主避難も含めた大量の避難者、仕事を失った人たち、家族が離散した人たちもいる。原発事故を苦にした酪農家が自死したことも忘れられない。 双葉町には今も仮設住宅があり、そこで生活している人もいる。相馬大堀焼の窯は浪江町にある。その理由は浪江の土が焼き物に良いからと聞いた。しかし窯のあった地域は現在も帰還困難区域。福島市荒井地区に浪江町から移転してきた相馬大堀焼の窯の一つがおかれている。 普通に考えてみれば分かることだが時間が止まることはない。時間が止まることと時計の電池がなくなって時計が動かなくなることとは違う。時間は過去から現在、そして未来へと絶えまなく流れている。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし」と鴨長明が『方丈記』の冒頭に記したとおりである。時間は「ひさしくとどまる例なし」である。時は流れているのであって電池切れで時計が止まっても時間が止まることはない。 にもかかわらず人はある場所に立つときに「時間が止まっているようだ」と感じる。だれか忘れたが「時間よ止まれ」と言った人もいる。この先に哲学的な「時間論」を展開するつもりはない。その力もない。しかし、小高伝道所の幼稚園の職員室にかけてある黒板の前に立つときに人は時間が止まったように感じる。一人だけが感じるのではない。何人もの人が同じ思いを持つ。それはなぜか。あのとき起こったことが少しも変わることなくそのまま残されているからではないだろうか。職員室の黒板がそれを示してくれる。震災から10年過ぎようとしている今、小高での2011年3月11日の午後2時46分がどうであったかを記してみる。 2011年11月1日に新教出版社が発行した雑誌の新教コイノーニアに震災当時、小高伝道所の牧師だった大下正人氏が「福島第一原発20キロ圏内で被災して」という文章を載せている。これを読むとあの日の様子がよく分かる。その時間には、預かり保育の子ども8名、年長組の親子10名、教職員5名で全員23名が幼稚園にいた。地震の激しい揺れで園舎の水道管が破裂してみんなが避難した園庭は水たまりになった。やがて山の方の小学校に避難したと書かれていた。海からの津波は幼稚園から500メーターのところまで押し寄せてきた。やがて原発が事故を起こしたため今度は原町の小学校に避難してください、との町内放送が流れる。その避難の様子は原発の近くの双葉町では自衛隊のヘリが出動して病院の入院患者などを搬送した。まるで戦争が起こったような事態だったと言う人もいる。 旧約のコヘレトの言葉に「神はすべてを時宜にかなったように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(3章11節)とある。災害の起こった現場に立って時間が止まっていると感じるときがあるとしても、神が人に永遠を思う思いを与えてくださることに思いをはせたい。それは神に祈る心である。

2021/2月号 月報より

2020年は振り返えると東北教区内の8教会で牧師・伝道師の就任式の司式を担当した。教会と伝道所は宮城県、山形県、福島県のそれぞれにある。一年に8つの教会と伝道所の就任式は多いと思われる。最後は12月16日(水)に山形地区の酒田暁星教会の合田やす子牧師の就任式だった。今年はコロナ禍の中でどの教会も事前の案内状を出さないで出席者を限定して、讃美歌も座ったままで一番しか歌わないなどの工夫をしながらの就任式だった。今までにしたことにない初めての経験である。 12月16日(水)の福島市は朝から雪化粧。積雪は何センチか分からない。初めから日本海側の酒田まで自分の車を運転して行くつもりはなく、福島駅から東北新幹線で仙台に出て、広瀬通りのバスターミナルから酒田行きの高速バスに乗るつもりだった。バスの出発は午前9時。福島駅を8時前の新幹線に乗った。バスのキップは前日に電話で予約しておいた。ところが、その予約番号を言いながら酒田行のキップを買おうと窓口に行ったが驚くべき言葉が返ってきた。まず酒田行のバスは仙台市内の道路が朝の道路混雑の影響で何時に到着するのか分かりません。さらに、東北道の仙台南と白石インターの区間で雪のための事故があり通行止めですからその区間の東北道の部分は一般道を走ることになります。また、高速の山形道に入ってからも雪道のために50キロ規制がかけられ時間通りには酒田につくことは出来ません。到着は今日の夕方になるかもしれません。 それを聞いて、バスターミナルから酒田暁星教会の合田牧師に電話をした。バスが道路の通行止めなどの影響により酒田到着が大幅に遅れるようなので今日の就任式は出来ないと思います。そういいながら目の前のバス乗り場をみると酒田行のバスが来ているではないか。出発予定時間の9時の5分前である。窓口であわててキップを買い、乗り込んだ。このような場合は迷ったらだめである。とにかく行くことである。乗客は16名いた。バスはいつも走る仙台宮城インターから高速に入らず一般道を走り山形道の川崎インターから入る。その時点で定刻より30分遅れ仙台バスターミナルからちょうど一時間かかった。 庄内観光物産館という鶴岡のバス停で止まった時に合田牧師に電話を入れた。その時点ですでに12時半を過ぎている。就任式の開始時間の午後1時にはとてもつかないことが判明した。酒田までまだかなり時間がかかるとのこと。それでも午後1時30分には就任式を始めることができた。出席した教会員は1名で役員の方である。その方に教会員としての誓約をしていただいた。他には山形地区長で山形六日町教会の波多野牧師とお連れ合いが出席した。それで全員である。私を入れて5名の就任式。福島への帰りの道は山形へ戻る波多野牧師の車に乗せていただく。酒田から余目を通り新庄に出て、東北中央道を山形まで帰ってきた。3時間かかった。山形までの一部分は国道13号を走る。国道は道路が圧雪状態で前を走る車も前後に揺られている。タイヤが滑るのだ。ハンドルが思う方向に動かない。運転の波多野牧師曰く。「このような時は流れに任せるしかありません」。 山形駅からは山形新幹線で新庄始発の「つばさ」に乗った。ここでも他の列車の到着を待ってから発車しますとのことで5分遅れた。バスも列車も遅れた一日だったが、その日のうちに福島へ戻れた。2020年の7月に広島のアライアンスの神学校へ行ったときは大雨の影響で仙台空港から広島空港行の飛行機が欠航となり広島到着が遅れに遅れた。それでもその日のうちには目的地に到着した。大雨も大雪も自然現象である。地震も津波も火山の噴火も同じである。自然は繰り返す。また大雨も大雪も繰り返して起こることだろう。まもなく東日本大震災から10年。震災があって今の私の務めがあると思っている。

2021/1月号 月報より

2021年の新しい年を迎えた。新型コロナウィルス感染の広がりが日本で、また世界の国々においても収まっていない中での新年である。過ぎ去った2020年は教会も1年を通じてコロナ感染拡大の影響を受け、礼拝も含めて様々な集会が中止となった。中止となった大きな集まりは10月に予定されていた教団総会。2021年10月への1年の延期が決定している。教団関係の各委員会については殆どがズームのオンラインによる会議に切り替えられた。便利な世の中である。一か所に集まらなくてもパソコン上で会議ができる。全国教区議長会議も二回開催されたがどちらもオンライン会議だった。 教区の集会を思い出してみる。3月の伝道研修会、5月の教区総会、11月の教区の集い、その他に教区の婦人会や各委員会が予定していた集会も多くができなかった。各地区の総会も同じく中止になった。これほどまでに教団も教区も各地区も各教会も含めて集会ができなかった1年は牧師としての人生の中で一度もなかったことである。 NHKのEテレで日曜日の午前5時から放送されている「こころの時代」で現在、旧約のコヘレトの言葉が取り上げられている。2021年の3月まで月に一度で6回の放送予定がくまれている。東京神学大学の学生時代からコヘレトの研究一筋に打ち込んできた旧約学者の小友聡氏とカトリックの信徒でもあり詩人でもある若松英輔氏の対談と言う形で一時間の番組が進められる。私としては若松氏が聞き手となるべきところなのに時々話過ぎることが気になるところだが、毎回、楽しみにしている。 11月に放送された番組の中で、若松氏からこんな発言があった。「コロナ禍というのはどのようなことなのかと考えると、こころにレントゲンをかけるようなものではあるまいか。それまで見えないものが見えてくる。とくに心の闇ともいうべき部分に光が当てられるように感じられる。コロナ禍によりそのような時代になったということである」。 若松さんの言葉を聞きながらすぐに聖書の言葉が浮かんだ。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなた方に言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。(マタイによる福音書10章26~27節) この言葉は恐ろしいほどに人間の心をえぐる。なぜか。コロナ禍がどうこうではなく、隠されているもので知られずに済むものはないと言われているからである。人間にはだれしも人に知られては困る秘密がある。明治の作家の泉鏡花が23歳で書いた小説に「外科室」がある。この作品で描かれる伯爵夫人は外科医の手術に臨んで次のように言う。 「私はね、心に一つ秘密がある。麻酔剤は譫言を謂ふと申すから、それが恐くてなりません。何卒もう、眠らずにお療治ができないようなら、もう快らんでも可い、よしてください」。さらに次のように書かれる。「伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かむことを恐れて、死を以てこれを守ろうとするなり」どのような結末を迎えたのかは「外科室」を読んでほしい。とにかく心にある秘密が暴かれるよりは死を選ぶと伯爵夫人は固く考えていた。そこまでして守る秘密とは何かとも考えるが、聖書は言う。そのように隠されているものも、知られずに済むものはない。誰に知られずに済まないものなのだろうか。もちろん神に対してである。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(同上30節)頭の髪の毛がどれだけあるにしてもその一本づつがすべて数え上げられている世界がある。それが聖書の信仰の世界である。人々を恐れることはない。髪の毛の一本一本を数えることの出来る方を恐れること、そしてその方の語られた言葉を伝えるためにあなたがた弟子たちをこの世へと派遣すると主は語られている。

2020/12月号 月報より

日本文学で文豪といえば森鴎外や夏目漱石の名前が挙がる。しかし、文豪は鴎外と漱石だけではないだろう。暗夜行路を代表作として短編小説を多く残した志賀直哉も文豪の一人である。志賀直哉が1918年に雑誌「白樺」に発表した短編小説に「流行感冒」がある。新聞記事がきっかけとなりこの小説を最近読む機会があった。流行感冒とは、1918年から1920年にかけて世界的に大流行したスペイン風邪と呼ばれる感染症。日本でも感染した約39万人が命を落としたと言われる。世界的な思想家のマックス・ウェーバーもスペイン風邪にかかって死んだそうである。それほど世界中を巻き込み猛威を振るった感染症が100年過ぎた今、世界中に再び流行している。新型コロナウィルスがそれである。 志賀直哉の「流行感冒」を読みながら100年過ぎても変わらない感染症に対する人間の対処の仕方などについて少し考えてみた。小説の登場人物は限られている。志賀、本人と思われる「わたし」とその妻、左枝子と言う名前のわたしの子供、そして女中の石という顔ぶれである。私が住んでいる町は千葉県の安孫子。こんな文章がある。 「安孫子では毎年十月中旬に街の青年会の催しで旅役者の一行を呼び、元の小学校の校庭に小屋掛けをして芝居興行をした。夜芝居で二日の興行であった。私の家でも毎年その日は女中たちをやっていた。然し、今年だけは特別に禁じて、その代わり感冒でもなくなったら東京の芝居を見せてやらうというような事を私は妻と話していた」。 今の新型コロナ感染の中に置き換えてみれば「三密」を避けることを私は考えて女中に芝居を見に行かないように言い渡していたが、女中の石は内緒で見に行ってしまう。夜遅くなって帰ってきた石に私がそのことを問いただしても石は「見に行っていません」と言うばかりである。 しかし、もしも石が大勢人の集まるところに出かけて感冒にかかった場合、子供の左枝子に移ることが私は心配である。今の新型コロナに関して使われている言葉ではクラスターの発生しやすい場所が夜芝居の興行と言える。結局、「芝居は見に行っていないと」とあくまでも嘘を言い切る女中の石は暇を取らせて辞めてもらうことになる。石がいなくなってからしばらくすぎてから、植木屋から私が感冒に感染した。そして妻も感染し子供の左枝子にも感染が及ぶ。東京からわざわざ看護婦を読んで何とかしたいと考えたが、その看護婦まで感染が及ぶ。まさに、私の家がクラスターになってしまう。植木屋から最初に感染した私の濃厚接触者がみな感染ということになった。 志賀の筆はここで終わらない。この後日談がある。女中の石が私の家に戻ってきて感冒にかかって苦しむ我が家の人の世話のためによく働くのである。東京から呼んだ看護師も及ばないほどである。石はすでに感冒にかかっていてと文中に記されている。つまり石は感染症の免疫ができていたというわけだ。こんな文章もある。 「その時はよく続くというほどに働いた。その気持ちははっきりとは言えないが、想うに、前に失策をしている、その取返しを付けよう、そういう気持ちからではないらしかった。もっと直接的な気持ちかららしかった。私にはすべてが善意に解せられるのであった。私たちが困っている、だから石は出来るだけ働いたのだ。それに過ぎないという風にとれた」。 志賀直哉らしい人間理解が語られている。感染症拡大の中で家族は石の善意に助けられたのである。新型コロナ感染症が拡大する中でマイナス面が多くあることは認めざるを得ない。教会でも予定していた集会がほとんど中止になっている。そして大きな問が投げかけられている。教会とは何か。礼拝とは何か。信徒の交わりとは何か、などである。当たり前のことであり普段は問わない、その問いかけを感謝して受け止めたい。

2020/11月号 月報より

福島教会に赴任してから4年半が過ぎた。まだこの間に一人も教会員が召されず私が司式する教会員の葬儀は行われていない。伝道師、牧師として在任したいままでの5教会にはなかったことである。ある教会では、無牧師の状態のなかで4月に赴任する前から教会員が危篤との連絡が入っていた。赴任早々に葬儀をしていただくことになるかもしれませんので、その場合はよろしくお願いしますと言われて赴任した。幸いにして脳梗塞で倒れたその方は健康を回復した。 さて、その一方で今年は伝道師、牧師として過ごした40年を超える歩みの中でお世話になった二人の先輩の牧師が相次いで天に召された。コロナ禍を考えて、葬儀は家族だけで行いたいとの遺族の希望があり葬儀の出席は遠慮した。一人は死後の連絡だった。お世話になったことへの感謝の思いを込めて二人の牧師の思い出を記したい。 一人の牧師は、7月に94歳で召された。1978年の春に神学校を卒業して伝道師として赴任した兵庫県西宮の教会におられたY牧師である。最初の出会いは、1977年の秋と記憶する。神学校の最終学年に在学していた私を西宮から訪ねて来られて結婚したばかりの私ども夫婦が住むアパートまで訪ねてくださった。学長の推薦により卒業後の招聘の話が進んでいた。伝道師の住む場所は教会にはなく、これから教会で借りようとする家を探すのに住んでいる部屋の広さを参考としたいと言っておられた。大阪生まれで大阪育ちの方で、大阪弁の鉛の消えない話し方だった。説教にも口癖があった。「いうたらなんやけど」とか「ごっつい大きな」などと言われる。どこの聖書の箇所を取り上げていても「聖書の中心はここや」。そして結びは「ありのままで救われる」である。Y牧師は教団出版局から、2009年に『夕べがあり、朝がある』という説教集を出している。どれを読んでも3年近く礼拝で聞いた説教を思い起こす。 そのなかに「世にあるキリスト者」と題する説教がある。ヨハネによる福音書17章9~19節からである。Y牧師の説教の典型的なものと思われる。 「キリスト者とは、俗世間を脱して超然たる人間だと勘違いされたりする。しかし、決してそうではない。キリスト者はこの世の持ち場を離れず、そこで責任を負い、それゆえに悩みつつ生きる人間である。」 もう一人の牧師は、9月に85歳で召された0牧師である。西宮から富山県の高岡教会へ赴任してから出会った。当時、富山市内の教会の牧師だった。赴任した翌年の12月末に召された教会員の葬儀の時に高岡教会に来てくださり葬儀のやり方を細かく教えてくれた。牧師となって最初に司式した葬儀なので今も昨日のように覚えている。富山県は仏教の特に浄土真宗が生活に根差している地域で、葬儀屋さんも仏式の葬儀で用いるものを教会に持ってくる。祭壇飾りなどもすべて仏式のもの。「それは必要ありませんと」と一つ一つ説明した。霊柩車は車に飾りのついた派手なもので、他の霊柩車はありませんかと聞いたところ即座に「ありません」と言われた。そんな時に0牧師がアドバイスをくれたので助けられた。「どうでもいいようなことは譲ればよい。大事なところは譲ってはならない」。この言葉は葬儀の場面だけでなく、日本に生きるキリスト者の覚悟を示していると思わされる。大切な考えである。 0牧師には自費出版した本がある。『神の民の歴史』と題するもので6冊本。旧約からの説教で「御言葉のままに」は創世記6章のノアの物語からである。「現代の問題は、この『箱船』を自分で作り出そうとする人間が、余りにも多すぎることではないでしょうか。即ち、自分を取り巻く数々の不安の中で、誰もが皆、『自分の箱船』を造っているのです。安心できる何かを、人生の目標とする何かを、神の御手を借りずに、自分だけで築き上げようとする過ちを、聖書は鋭く批判しているのです。」Y牧師とは切り口の違う0牧師の説教である。どちらも二度と聞くことができないのは淋しい限りである。

2020/10月号 月報より

猛暑が続いたこの夏にミヒヤエル・エンデの『モモ』を読んだ。翻訳したのは、大島かおり。原著はドイツ語。8月号の月報で「無名である喜び」と題する説教に、読まなかった本としてル=グウィンの『ゲド戦記』を記した。『モモ』も同じである。どちらも子供たちの本棚でほこりをかぶっていた。今回初めて『モモ』を読んで『ゲド戦記』同様に子供向けに書かれたファンタジーの作品だが読まないと損をするような内容の深みのある本に思える。 主人公のモモは背が低くやせっぽちの女の子で年齢は8歳か12歳ぐらいか見当もつかないと書かれている。廃墟となった小さい円形劇場に一人で住んでいる。モモは、灰色の男たちと称され、ひたすら人間から奪った時間を時間貯蓄銀行にため込んでいる時間泥棒から亀のカシオペイアと協力して人間たちが奪われてしまった時間を取り戻すための働きをする。空想なので愉快なだけでなく読むと深く時間とは何か考える機会を与えられる。と同時に「時は金なり」と言い時間を無駄にしてはならないとあくせく働く人間を風刺して描くので、時間を盗まれるのは自分の姿ではないかと気づかされる。また物語の真ん中あたりには時間の国に亀に連れられて入るモモに対して時間の国の主であるマイスター・ホラが出すモモへの謎かけが記される。これが興味深い。 「3人の兄弟が一つの家に住んでいる。ほんとはまるでちがう兄弟なのに、おまえが3人を見分けようとすると、それぞれ互いにうりふたつ。1番上はいまいない。これからやっと現れる。2番目もいないが、こちらはもう家から出かけた後。3番目のちびさんだけがここにいる、それというのも、3番目がここにいないとあとの二人はなくなってしまうから。でもその大事な3番目がいられるのは1番目が2番目に変身してくれるため。おまえが3番目をよくながめようとしても、そこに見えるのはいつも他の兄弟だけ。さあ、言ってごらん、3人はほんとは1人かな。それとも2人。それとも―誰もいない。さあ、それぞれの名前を当てられるかな。それができれば、3人の偉大な支配者が分かったことになる。彼らは一緒に、一つの国をおさめている。」 モモはこの謎の正解を出せたでしょうか。いろいろ考えた挙句に正解を出しました。モモの答えは、3人兄弟の一番上は未来。2番目は過去。3番目は現在。3人の偉大な支配者とは時間。3人で一緒におさめている国とは人の生きる世界。私たちの住んでいる世界は過去、現在、未来の時間の中で成り立つ。例えば未来は、今はいませんがやっと現れるものと考えられる。一つの時間の考え方である。過去も現在もマイスター・ホラが喩えて語る通りである。 本棚から取り出した『モモ』のページを開くと間から二つ折りの紙が出てきた。長女が小学校3年の時に学校に提出した読書の記録カードである。担任の先生の「よくできました」との赤いスタンプも押してある。カードには読んだ日や本の名前だけでなく本のページ数からカードに記された読んだすべての本の合計ページ数まで書く欄がある。つまり、どれだけたくさんの本を時間を無駄にせず読んだかを先生は知りたい。小学校の授業参観で子供の教室に入った。すると壁に生徒の名前が全員書かれた表が貼ってあり生徒たちが読んだ本の名前や合計のページ数が棒グラフになって掲示されていた。時間を無駄にせず本をたくさん読みなさいとの考え方こそ「モモ」が戦った灰色の男たちと一緒ではないのか。すなわち時間泥棒の人たちである。今年になって急速に拡大した新型コロナウィルス感染の中で東京の病院で医療従事者として働いている長女が小学3年だった時に書いたカードの出現は以外だった。文字の乱雑さを見て、「こんなものを書かせるのは時間泥棒ではないのか」との思いが伝わり「この文字はとても読めないよ」と笑いこけてしまった。

2020/9月号 月報より

仙台空港二階の保安検査場を通過しようとしたとき係員から声をかけられた。「ANAの4番カウンターまで行ってください」。すぐに4番カウンターへ。窓口で聞いた言葉は全く予期しないものだった。「予約をいただいている今日の17時35分発、広島行の飛行機は天候不良のために欠航になりました。今日もし広島まで行くのであれば同じ17時35分発の大阪、伊丹空港行に乗り換えでください。広島行の搭乗券を伊丹行に切り替えることは出来ます。それとも明日の朝、午前7時すぎの広島行にしますか」。 「明日では間にあいません」と言うと、「伊丹からリムジンバスに乗り新大阪まで行き、新幹線で岡山下車、バスで岡山から広島空港行に乗ってください。今日中には着くことができます」とのこと。長話をしている余裕はないと判断し交渉はすぐ切り上げた。とにかく伊丹まで行くことにして、伊丹からはタクシーで新大阪駅の新幹線のホームに一番近い所まで行ってもらった。駅で広島行の自由席のキップを買ってホームへの階段を駆け上がるとすぐに博多行の「のぞみ」が来た。 「のぞみ」は新大阪を出ると新神戸、岡山、福山にしか止まらない。新大阪19時38分発で21時3分にはJRの広島駅に着いた。「やまびこ」が東京と福島間を走るよりも速い。42年ぶりに会う友人が駅まで迎えに来てくれた。「先生も白髪になりましたね」と言われたが全くその通りである。彼は現在、広島の五日市にあるアライアンス神学校の校長をしている。今回、神学校の公開講座に招いてくれたのは彼である。42年の歳月は短くはないが、この間は単なる空白ではなく季刊「教会」に私が長く連載していた論文を読んでくれていた。神学校内のゲストルームに宿泊させていただいたが、夜どうし外はかなりの雨が降っていた。雨の音がしきりなしにしていたが疲れ果てていたのですぐにベッドに横になると眠ってしまった。 翌日は、すかっと青空ではなかったものの雨は止んだ。午前10時から午後3時まで公開講義である。開会礼拝と昼食の時間を別にして3時間あまり「日本人の宗教性とキリスト教」というテーマで話をさせていただいた。今まで東北教区の放射能問題支援対策室「いずみ」の室長をしている関係で2011年の東日本大震災や福島の原発事故と放射能の問題について各教区総会や各教会が開いてくれた集会で「いずみ」の甲状腺検査などの取り組みについて話す機会は多くあった。しかし、「日本人の宗教性とキリスト教」をテーマにして話すのはおそらく初めてのように思われる。講義で初めに話したことは、日本伝道には壁があること。その壁は日本人が福音を受け入れる土壌にあること。そして、その土壌とは何かという時に作家の遠藤周作が『沈黙』の中で転んだ司祭のフェレイラに言わせている言葉に突き当たることを話した。「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国はもっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」。そしてさらにフェレイラは次のようにも云う。日本人は「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」。この言葉は日本人が考える神の概念について遠藤の認識が足りないゆえの誤解である。日本には神と言う言葉はあるけれどもキリスト教の神概念との違いがあるというべきである。日本人は神概念を持たないのではない。 講義の終了後に何人かの方から質問や意見があった。日本の土壌を考えるために批判的に引用した遠藤周作の『沈黙』を読んで私は教会へ行くようになりました、と言う方がおられました。そのような方もおられることを認めなくてはなりません。三浦綾子の小説を読んで手紙を出したところあなたの住んでいる地域には何々教会があるからそこにぜひ行きなさいと言われ教会に行くようになった方もおられる。言葉の力を感じる出来事である。

2020/8月号 月報より

20世紀のスペインの思想家オルテガの名著『大衆の反逆』の新しい翻訳が出版されたとの記事を新聞で読みました。岩波文庫からです。今回、新訳を完成した方は、佐々木孝といい郷里の福島県南相馬市に東京の大学を退職し晩年戻られて今回の翻訳を完成したと記されていました。2018年12月に肺癌のために79歳で亡くなられた時には、翻訳の原稿は完成していて息子の淳さんに託されたそうです。そのような意味で遺稿です。 記事には2011年3月11日の震災と原発事故を挟んで南相馬でなされた翻訳作業だったとありました。しかも認知症となった妻を連れて自宅で介護をしながらの仕事でした。認知症の妻を連れて他の場所への避難はできないとの判断から原発事故後も自らの命の尽きるまで南相馬にとどまりつづけ翻訳の仕事に打ち込んだようです。南相馬は鹿島区も原町区も小高区もそれぞれに教団の教会や伝道所があり原発事故後に仙台から、そして今は福島から何度も通っている地域です。あの地域が郷里であるために原発事故前からそこに住み、事故後もさらに住み続けオルテガの翻訳の大きな仕事をされてから亡くなられた方がおられることを知りました。記事を読み苦労の日々を思い心が動かされる思いでした。 オルテガの『大衆の反逆』の名前は前から知っていました。読んだことはなかったのです。新聞を読んですぐに大原病院近くの西沢書店に駆けつけて探しましたが岩波文庫そのものがわずかしか置いてありません。もちろん佐々木訳の『大衆の反逆』もありませんでした。そこで妻に頼んでアマゾンで取り寄せてもらいました。注文した翌日に届きました。なんという速さでしょうか。 オルテガの『大衆の反逆』を始めて読んだ感想を記します。まずこの本を今、国連の世界保健機構が「パンデミック」(世界的大流行)と呼ぶ新型コロナウイルスの感染が広がる中で読むことができたことはただの偶然とも思えません。このようなときに人間とは、大衆とは何か、と考えることができました。2020年6月末の時点で今回のウイルス感染者の数は世界中で1000万人を超え、死者は50万人を超えています。100年前に大流行したスペイン風邪以来の感染者の多さです。世界中の大衆が罹患した感染症です。ブラジルなどでは貧しい人たちの住む地域での感染が拡大しています。しかし、貧富の差でなくその差を含む大衆とは何でしょうか。オルテガがこの本を出版したのは1930年です。第一次と第二次世界大戦の間の時期です。スペインではその年に首都マドリードで暴動が起こり、翌年の1931年にはスペイン革命が起こりブルボン王朝の滅亡となります。大衆が起こしたスペイン革命だったはずです。 『大衆の反逆』の中で印象に残った言葉を一つ紹介します。「つまり私たちは、信じられないほどの能力を有していると感じていても、何を実現すべきかを知らない時代に生きているのだ。あらゆるものを支配しているが、おのれ自身を支配していない時代である。おのれ自身の豊かさの中で途方に暮れている。かってなかったほどの手段、知識、技術を有していながら、現代世界は、かってあったどの時代よりも不幸な時代として、あてどもなく漂流している」。オルテガにとって大衆とは便利さや豊かさの中で自分を支配できず途方に暮れている人たちです。なんという厳しく冷めた大衆の見方でしょうか。  以前にベツレヘムの聖誕教会を訪ねたことがあります。教会の地下に4世紀の教会の指導者ヒエロニムスの石像が立っています。石像の足元に石でできた人の頭骸骨が置かれています。ヒエロニムスが聖書のラテン語への翻訳の仕事をこの教会の洞窟にこもってしていた時に励ましてくれたローマの貴族の未亡人パウラの頭骸骨のレプリカと言われます。パウラの死後にヒエロニムスはその骸骨を見ながら自分を励ましウルガタ訳と言われる聖書の翻訳を完成したのです。オルテガを翻訳して死んだ佐々木孝さんを思いました。

2020/7月号 月報より

6月2日(火)の午前6時少し前のことです。朝来た新聞を読んでいると外で鶯のなく声が聞こえました。どこで鳴いているのかと思って窓越しに場所を見ようとしているうちに、三、四回きれいな鳴き声で鳴いてからすぐにいなくなりその後は二度と現れませんでした。鶯が飛び去ってすぐに急な雨が降り始めました。まるで雨が降ることを知らせに来てくれたかのようでした。日本では「梅に鶯」という言葉があるので鶯は春先に来るのかもしれません。中国では鶯はよく詩の中にうたわれています。唐の詩人に杜牧という人がおり「江南春」という題の詩があります。 「千里鶯鳴いて、緑紅に映ず」と始まる七言絶句です。中国でも「江南春」の題で杜牧が絶句を残していることを考えると鶯は春にやってくるのでしょう。鶯との関連で言えば昨年の日記に鶯の鳴く声を6月2日ごろに聞いたと書いてあるかと思い調べてみました。書いてありません。その代わりに6月2日は日曜日で「東北きずな祭り」が国道4号線を一部通行止めにして行われていて、青森から来ていた「ねぷた」を見に午後になってから行ったと記されていました。あれから一年が過ぎました。一年前にこのような世界中に新型コロナウイルスの感染拡大が起きることを誰が考えていたでしょうか。誰一人として夢にも思わなかったことではないでしょうか。 小高伝道所と浪江伝道所の代務者をしている関係で、相双・宮城南地区の総会の資料が5月中に手元に送付されてきました。本来ならば5月17日(日)の午後に開かれるものでしたが、教区総会と同じく書面による決済となりました。相双・宮城南地区は宮城県の南部にある10教会と福島県浜通りの5教会で合計15の教会、伝道所によって構成されています。そのうちの2教会2伝道所が現在無牧師です。送られてきた総会資料には議員名簿や昨年の会計報告や今年の活動計画案ばかりでなく各教会の近況報告と新しく地区内の教会に4月から赴任された3人の教師たちの自己紹介が写真入りで載せられていました。それぞれ読ませていただきましたがコロナウイルスの感染拡大の中で、地区内それぞれの教会が主日礼拝をどのように守っているのかが書かれており主日礼拝を休まないで何とか守ろうとする努力のいったん知ることができました。当たり前のことのように毎週何事もなく守られ続けている主日礼拝ですが、ウイルス感染拡大の事態の中で改めてなぜ教会に集まり礼拝するのかが問われる思いがしました。ちなみに、ウイルスはラテン語で、毒の意味だそうです。 相双・宮城南地区の総会資料とともに送られてきた文書の中に、4月からはパソコンのズームを利用してオンライン礼拝をしている教会がありました。また4月12日からは教会で主日礼拝は守らないようにして事前に送られてきた週報に沿って礼拝を守った教会もあります。福島教会と同じ形です。礼拝開始一時間前から礼拝堂に次亜塩素酸を噴霧してから主日礼拝を休まず守り続けた教会もあります。さらには、礼拝中の讃美歌や信仰告白や主の祈りなどもすべて黙読や黙祷にしている教会もあります。礼拝中に会衆は声を出さないということです。また、礼拝堂に集まる人の人数を制限して毎週守り続けた教会もありました。 しかし、ズームによるパソコンやスマホの画面上の礼拝が礼拝と言えるのかなどと考えだすと難しい問題があると思われます。あくまでもコロナ対策のために教会に集まれない中での苦肉の策でしかありません。これからは教会へ行かなくても済むようにズームによる礼拝に切り替えることにしたなどということにはならないことを願います。感染の第二波や第三波が来るのではないかと恐れている人たちがいます。しかし、聖書はいつの時代においても預言者や神のみ使いたちを通してその時々に生きる人たちに「恐れることはない」と語りかけているのです。

2020/6月号 月報より

世界中のイスラム教徒たちは4月23日(木)からラマダン(断食月)に入っている。この日から一か月間は日の出から日没まで飲食をしない。ラマダン期間中でも日没を過ぎて夜になれば家族とともに食事をすることができる。このこと一つとってもイスラム教は戒律を守る宗教。信者に対して「五行」の戒律を守ることも示される。信者はどこに住んでいても一生に一度はサウジアラビアにある聖地のメッカに巡礼に行かねばならない。メッカ巡礼は「五行」の一つである。「五行」はともかくとして、今年のラマダンには異変が起きている。新型コロナウィルスの感染がイスラム教の国にも広がりを見せているからである。 例えばイスラム教徒の多い、サウジアラビアでは、ラマダン期間中の礼拝をモスク(礼拝所)ではなく自宅で守るようにと指導者たちが呼び掛けている。インドネシアも同様である。しかし、パキスタンなどでは人と人の距離を2メーターあけてモスクでの礼拝を守ると決めている。たしかに安息日にモスクで守る集団礼拝は三密(密閉、密集、密接)である。エルサレムの黄金のモスクやイスタンブールのアヤソフィアモスク、ブルーモスクなどを見学しているがここに集まり集団で礼拝する様子は想像できる。まさに密集そのものである。 私たちの教会が属している日本基督教団でも全く同じ考えが示されるようになった。4月10日に教団議長と総幹事の名前で「新型コロナウィルス感染拡大防止に関する声明」が出た。そこには次のように記されている。「感染の危険が高まっている地域の教会・伝道所では極力、教会に集わない方法で礼拝をささげることを講じてください」また、「自宅で礼拝をささげることも、他者にウィルスを感染させないという意味で神の愛の業です。」さらに「自宅礼拝をささげる人が、霊的に孤立することがないように努めてください」などである。福島教会でも教団に属する教会として議長声明に従う形で4月26日と5月3日の主日礼拝を家庭礼拝とした。教会員がそれぞれ自宅においてあらかじめ教会が送付したその日の週報に従って礼拝を守る形である。これは牧師として苦渋の決断である。断腸の思いがする。牧師としての40年を超える歩みの中でこのような形で礼拝をする決断をするとは全く思ってもみないことだった。 教団議長の「他者にウィルスを感染させないために自宅で礼拝をささげることも神の愛の業です」を読みながら昔読んだフレッチャーの『状況倫理』を思い出した。この本には「キリスト教的な決断にとって唯一の規範は愛である。他にはなにもない」と記されている。新型コロナウィルス感染の中でいろいろな国において医療崩壊が起こり人間の命が危機に瀕している。その中でキリスト者に対してもいままでに経験したことのないことへの決断が求められる。礼拝を今までと同じように皆が集まる形で続けることがよいのか、そうではないのかの決断である。その決断の基準は何か、と問われるならばフレッチャーはキリストへの愛である、と答えるだろう。 もう一冊、アルベール、カミュの『ペスト』もこの時期に読んだ。ウィルス感染が広がる中でカミュの『ペスト』は売れている。主人公のリウーはペストと戦う医師である。この小説の中で疫病のペストと戦うのは一人リウーだけではないが、リウーの言葉で印象に残った言葉がある。「こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかし、ペストと戦う唯一の方法は誠実さということです」そして、「誠実さとはどういうことですか」に答えて「僕の場合には自分の職務を果たすことだと心得ています」とリウーは語る。リウーは自分の医師としての務めを疫病ペストが広がる中で果たすことを誠実さと理解する。私どもにとって愛も誠実もキリストの十字架の信仰に基づくものではあるまいか。そこに状況への愛の決断も誠実も生かされる道がある。「愛には恐れがない」(Ⅰヨハネ4章18節)からである。

2020/5月号 月報より

今年になって出版された新刊書の一冊を手にした。斎藤孝の『一行でわかる名著』である。「はじめに」のところで、 一行一生―その一行が、一生の先生になる、と記されている。さらに「この本では古今東西でおさえておくべき61冊の名著を厳選しました。これらに触れることで、私たちの知的能力がどう拡張されうるか、七つの章に分けて解説しました。読書は洞察力や判断力だけでなく、共感力や生命力にも火をつける」と書かれている。読んでみて面白いと思った。その影響を受け長年の読書の中で自分なりの「一行でわかる名著」を二冊紹介したい。ただし聖書の中の一行の言葉は含めないで聖書の紹介はしない。聖書はもちろん名著ではあるが、それだけでなく私たちにとって「信仰と生活のあやまりなき規範」(日本基督教団信仰告白)である。 最初は20代の大学時代の専攻が中国哲学であったためによく読まされた『論語』である。原典を一年かけて読む講義は必須科目だった。『論語』は紀元前に書かれたもので世界の名著である。共感する言葉が年齢とともに変わっているように思える。最近、伝道と牧会しながら読んでこの一行の言葉といえば為政第二にある。 「子曰はく、人にして信なければ、その可なるを知らざるなり。大車げいなく、小車げつなくんば、それ何をもってかこれをやらんや」貝塚茂樹の訳文を記す。「先生がいわれた。人間の身でありながら、その言葉が信用できないと、いったいなんの用に立つか皆目わからない。大車にくびき、小車にくびきがなかったら、どうして牛馬の首をおさえて車を走らせることができようか」  大車のくびきは牛車の前端にあり、牛の後ろ首にかける横木のこと、小車のくびきは馬車につかうくびきのことであり同じようなくびきであっても牛車と馬車の区別がある。孔子が何歳の時にこのような言葉を弟子たちに教えたのかは分からない。しかし、実に深い洞察力による人間理解が示される。教会の牧師として長年歩んで最近はしみじみその言葉を思う。まさに「人にして信なければ」である。教会の中だけでなく世の人々に対してもどんなに理路整然と立派な言葉を語ったとしても人から信頼されていないならばその言葉は何の役にも立たない。つまり人を動かさないし何の可もない。人と人が信頼しあうことの大切さを孔子はよく知っていたのである。また逆に信頼しあわないときにどのようになるのかも知っていたのである。 もう一冊紹介したい。アウグスティヌスの『告白』である。400年に全13巻を書き終えている。この書物も原典で関西学院大学の神学部の大学院の講義で一年間かけて宮谷宣史先生指導の下で読んだ。30代の前半のころである。第一編に次のような言葉がある。 「あなたがわたしたちを、あなたにむけて創られたからです、そのためわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまでは、安らぎをえません」(宮谷宣史訳)日本語だけでなく外国語も含めてほとんどすべての翻訳文を参考にしながらラテン語の原文を読み一回の講義で少ししか訳すことができなかったことを思い出す。『告白』は『懺悔録』という名前の書物として昔、出版されていた。それはこの書物の内容がアウグスティヌスの幼年期から司祭になるまでの自分の罪の懺悔を記していると考えられるからである。しかし、書物の題名「コンフェシオ」の意味は、「讃美する」もあり『讃美録』とするべきとの意見のあると聞いた。神が人間を創造したとの信仰の立場に立ちながらその神のもとに憩うまでは真の平安がないとの一行の言葉は、いま新型コロナウイルス感染の騒ぎの中にある世界中の人たちが心して聞くべき言葉である。神のもとに憩わせていただく礼拝の時をたとえどのような時代どのような時にあっても大切にしたいものである。

2020/4月号 月報より

2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から今年の3月11日で9年になりました。例年通り教区主催による3、11記念礼拝が教区内の四か所の教会を会場にして守られたと思います。今回で9回目となるこの礼拝は2月以後に中国から広がったとされる新型コロナウィルスの感染拡大が日本国内のみならず世界中で懸念される中での開催となり、中止する方がよいとの意見もありました。確かに教区主催ということであれば3月20日に予定されていた伝道研修会は中止にしています。福島地区では3月15日に予定されていた地区協議会も中止になりました。したがって3、11の礼拝を実施するかどうかも含めて主催する教区側の責任あるものとして判断に迷いました。 しかし、この礼拝は3,11に守ることに大きな意味があり他の日に延期することはできないと考えました。そして礼拝の出席は主日礼拝がそうであるように自主的なものであり各自の判断が優先されます。出席については各自の判断にゆだねるしかありません。それでも福島県で会場となった福島新町教会には32名の方々が集まり、京都から出席された方もおられました。 コロナウィルス関連で行事を実施するかどうかの判断に迷ったのは3、11記念礼拝だけではありません。3月14日(土)に宮城県栗原市で行われる「いずみ」主催の甲状腺検査の実施についても判断に迷いました。「いずみ」として「甲状腺検査会の実施について」の文章を作成して検査を受ける方々に注意を喚起しながらの実施となりました。役に立つ点もあるかと思いますのでその文章の中からいくつかの点を紹介します。 1、新型コロナウィルスの感染力はインフルエンザと同程度で、感染経路は飛沫感染と接触感染。 2、一部の患者さん(特に高齢者や基礎疾患を有する方)が重症化する可能性がある。3、致死率はサーズやマーズに比べて低い。中国では感染者の約八割は軽症で、致死率についてはサーズでは10パーセントに対して新型コロナウィルスは現在2パーセントとのことです。 尚、新型コロナウィルスの問題点については、検査法がまだ普及していないこと。治療法がまだわからない、などがあります。 「いずみ」の検査会は希望者を対象としたものであり、強制参加ではありません。体調がいつもと違う場合は慎重に対応していただくようにお願いします。 これは検査を実施する医師の意見を聞いて作りました。やはり「いずみ」の甲状腺検査にしても、3月下旬に沖縄に行く予定の保養のプログラムについても社会と直接関わる取り組みであるために、実施には慎重を要することと思います。それにしても公立の小中学校の臨時休校や大相撲春場所の無観客での実施。政府主催の3、11追悼式典の中止などさまざまな中止対応がなされるなかで人々の生活に混乱が起きています。これ以上のウィルス感染拡大が起きないことを祈るばかりです。 人間の歴史は感染症との戦いでありその戦いには終わりはないと言われます。中世のヨーロッパの社会を恐怖におとしいれたペスト(黒死病)の流行もペスト菌の感染によるものです。当時の世界で一億人もの人たちが死にました。ペスト菌はネズミなどからノミを通して人間に感染が及んだものと考えられています。ある国では人口の半分ぐらいの人が死んだと聞きました。現在もドイツ南部の小さな町のオーバーアガマウで行われるキリスト受難劇はそのペストが自分たちの町では流行しなかったことに街の人たちが感謝して10年に一度、町の人たちがすべての配役となり行われています。2020年の今年がその年に当たるそうです。

牧師室より

2020/3月号 月報より

今年の1月27日、1940年にナチス・ドイツが建てたアウシュビッツ強制収容所が旧ソ連軍によって解放されて75年になり記念の式典が行われたとの新聞の記事を読んだ。場所はポーランドの南にあるオシフィエンチムという町。オシフィエンチムは、アウシュビッツ強制収容所のあった町である。新聞の記事の中に収容者たちが銃殺された死の壁と呼ばれる施設内の写真が載っていた。そして、この式典に世界各地から参加して死の壁の前に立ち献花をして祈る人の姿が示されていた。 1945年1月27日に旧ソ連軍によってアウシュビッツ収容所が解放されるまで、このような収容所がポーランド国内にあることは知られていなかった。もちろん当時のナチス、ドイツが支配した他のヨーロッパの場所にも収容所はあったが、その存在も知られていなかった。また、このアウシュビッツ収容所一つだけでもユダヤ人を中心に110万人もの人たちが殺されている。このような事実を含めてホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)と呼んでいる。さらに、アウシュビッツ収容所が解放されたとき約7500人が生き残っていたそうである。そして、今回の式典に出席した人たちを含めて約200人の人たちが今も生きているとのことである。 私がこの収容所を訪ねたのは10年前の2010年の夏。ポーランドからドイツを巡る旅の途中である。かねてから一度機会があればぜひ行きたいと願っていた。そのような願いは、フランクルの『夜と霧』を大学時代に読んだことにより起こされた。はじめて『夜と霧』を霜山徳爾訳で読んだときの衝撃は今も忘れることができない。人間歴史の中に本当にこのような出来事が起こったのか。信じられないが正直な思いだった。もし、このようなホロコーストの施設が本当にあるならば自分の目でその場所を確かめてみたいとの思いを抱いた。単純といえば単純である。しかし、真理の発見とは科学の世界でも「なぜリンゴが木から落ちるのか」との単純な問いをニュートンが持ったので万有引力の存在が発見されたように単純な問いを持つことから始まるのではないだろうか。『夜と霧』を読んだことから生じた単純な問いはそのまま心の中に秘められており、その後長い間実現せず2010年になって初めて実現した。最近では1947年刊の旧版に基づく霜山徳爾訳の他に、1977年に刊行された新版に基づく池田香代子訳があり訳文も読みやすくなっている。 『夜と霧』の著者のフランクルは、この本の副題が示しているように「ドイツ強制収容所の体験記録」実際の収容所を体験している。しかも心理学者として人間の心の問題を考える専門家の立場からこの本を書いたと言える。さらに言えばこの本が描いている人間の状況は極限の状況である。そのようなところに著者自ら身を置いて「人間とは何か」と問いかけている。人間は普段は他者に対して身構えており人の手前も考えるので正体を現さないが、ひとたび極限状況に置かれると正体を現す。まさに聖書が記しているように、「覆われているもので現わせないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(マタイによる福音書10章26節)の通りである。 フランクルが『夜と霧』の中に記す言葉を引用する。「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」。福島で生きることの問いは9年前の震災と原発事故の中で問われた。その問いに正しく答える義務があるとフランクルはこの書物を通して今も語りかけてくる。

2020/2月号 月報より

いつも利用している生協の個配の配達が年末から年始にかけて休みになった。
そのため年末と年始は毎日のように生協の新町店に買い物に出る。年末の店の中には、ベートーヴェンの交響曲第九番(合唱付き)の第四楽章「よろこびの歌」が流れていた。
日本では、いつからか分からないが年末に第九を歌うことがなされている。ある地域では「第九を歌う会」があると聞いた。クリスマスにヘンデルの「メサイア」を歌うよりも広く浸透しているようだ。
ところが新年1月2日から営業を始めた新町店に行くと、今度は宮城道雄の筝曲「春の海」が流れている。正月になったから第九から琴と尺八の二重奏「春の海」へ変わった。なんという変わり身の早さだろうか。
年末前のクリスマスの季節はジングルべル、年末は第九、年始は春の海の曲が流れていて何の不思議にも思わない。これが日本である。「さんまは目黒に限る」ように年始は「春の海」に限るのだろう。 生協の新町店の道路を挟んで反対側の道路に面して鈴木神仏具店がある。店の前の道は散歩のときによく通るが店の中に入ったことはない。店の看板に神具、仏壇、仏具、などとある。なるほど神仏具店だから神道のものも、仏教のものも両方売っているわけだ。しかし前を通るたびに神仏具店という名前に違和感ももっていた。
京都の町には仏具店は多くある。しかし、神仏具店はあっただろうか。京都の町をくまなく歩いたわけではないが、少なくとも京都駅前にある東西本願寺の本山の周辺にはなかったように思う。
これも、ジングルベルから第九へ、そして春の海へと変わり身が早いことと同じ現象ではないだろうか。神仏具店は神仏習合していてお寺の中に神社がある日本だからありうることではないのか。
さて、評論家の加藤周一に『日本文化の雑種性』がある。加藤は、1951年にフランスにわたり帰国してから『日本文化の雑種性』を出版した。フランスで改めて日本の思想や文化について考えた。
加藤より1年前の1950年の夏に森有正や遠藤周作もフランスに渡っている。そして森も遠藤も加藤もフランスに住んで日本文化や思想について思索した。ただ三人の書いたものを読むと、それぞれ違う考え方をしているように思われる。ここでは加藤の日本文化の雑種性について紹介したい。
加藤は次のように記す。「明治以来日本の文化を純粋に西洋化しようという風潮が起こると、日本的なものを尊ぶという反動が生じ、二つの傾向の交代は、今にいたってもやまないようにみえる。こういう悪循環を断ち切るみちはおそらく一つしかないだろうと思われる。
純粋日本化にしろ純粋西洋化にしろ、およそ日本文化を純粋化しようとする念願そのものを棄てることである。英仏の文化は純粋種であり、それはそれとして結構である。日本の文化は雑種であり、それはそれとしてまた結構である。」
日本で純粋西洋化の道を断念したことにおいては、カトリックのキリスト教徒だった遠藤も同じである。そして、加藤は日本の文化は雑種でよいと考えている。
今、教団の宣教研究所から原稿の依頼を受けている。5人の牧師の分担執筆で一冊の本が出版される予定である。
私には「日本人の宗教性とキリスト教」という題で書いてほしいとの依頼。日本人の宗教性とは何か。加藤ならば雑種であるというだろう。クリスマスにはジングルべルを聞いて、年末には第九を聞いて、新年を迎えれば春の海である。
七五三ではお宮参り、結婚式はキリスト教式で、お葬式はお寺で、まさに雑種である。本人には雑種との意識もないのではあるまいか。聖書を開いてみる。
エジプトから脱出した民は、「種々雑多な人々」(出エジプト記12章38節)だった。種々雑多(雑種)の人々を一つのするために神の言葉としての十戒が与えられた。
雑種であるがゆえに一つになる道があると信じる。それが聖書の信仰である。

2020/1月号 月報より

2020年の新しい年を迎える。20年前に2000年を迎えた時は21世紀を迎えてどのような時代が来るかとの期待感もあったが、2000年を記念して日本銀行が発行した2000円札と同じように、新しい時代への期待感は2、3年でどこかに消えてしまった感がある。消えてしまった2000円札は2019年秋に火災にあって焼失した沖縄の首里城の守礼の門が表で、裏には源氏物語の著者の紫式部が小さく描かれる図案だった。今回の火災で首里城の正殿など中心部分は焼失したが城の入り口に立つ守礼の門は焼けなかった。1972年3月に初めて沖縄を訪ねた時に首里城に上った。日本に沖縄が返還される前である。城の全体が戦争で破壊され何も残ってはいなかったが、古びた木造建築の守礼の門だけが残されていた。もちろん再建された首里城の正殿とともに守礼の門も新しい門になっている。また、ユネスコの世界遺産に指定されたのは焼けなかった首里城の地下の遺跡の部分といわれる。 さて、新しい年を迎えて「新しい」とはどういうことなのだろうかと考えてみた。聖書は旧新約を問わずしばしば新しさについて語る。旧約の詩編96篇も98篇も最初は「新しい歌を主に向かって歌え」である。「新しい歌」の新しいとはどのようなことだろうか。「新しい歌」とは新しく作られた歌のことであると説明する人がいる。つまり新曲である。果たしてそんなことだろうか。そうではあるまい。新しさにはもっと深い意味が込められている。それは終末的な新しさである。古い曲に対して新曲の新しさを意味するのではない。預言者のエレミヤにおける「新しい契約」のことも思いだす。エレミヤの「新しい契約」はエレミヤ書31章に記される。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(31節)ここで言われる新しい契約とは何か。「かってわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心の中に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(32節~33節) ここに預言者エレミヤが考える「新しさ」が示される。その新しさは、神と人との契約にかかわる新しさである。古い契約については「先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」。具体的には十戒のことである。十戒は二枚の石の板に記されていた。しかし、新しい契約に関しては、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心の中に記す」と言われる。新しい契約は十戒のように石の板ではなく、心の板に記されるものと考えられる。ここにエレミヤが語る「新しさ」の意味がある。心の板とはなんであろうか。心に板などあるわけがない。つまり石のように目に見えるものでなく、目に見えないものとして新しい契約は心の板に記されているのである。そこに新しさがある。 他方、新約が語る「新しさ」とは何か。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。(ガラテヤの信徒への手紙6章15節)パウロはここで「新しさ」について語る。その新しさは「新しく創造」されることの新しさである。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。(コリントの信徒への手紙二・5章17節)この二つのみ言葉をともに読んで示される「新しさ」は、キリストと結ばれることによって得られる「新しさ」である。それでは私どもはどこでキリストと結ばれるのか。それは礼拝である。2020年の新しい年を迎えても一年52週の礼拝を守り続けていく中でキリストに結ばれている新しさの中を歩みたいものである。

「ニューヨークへ一人旅」② 2019/12月号 月報より

   ニューヨークへ一人旅の二回目を記す。今回の旅の目的は三つあった。
一つ目は9月15日の主日に守られるニューヨーク郊外のユニオン日本語教会30周年記念感謝礼拝に出席すること。
二つ目は、理事や評議員を務めまたキリスト教学の非常勤講師として教壇に立った東北学院大学の創立に関わる宣教師、ホーイの母校、ペンシルバニア州のランカスター神学校を訪ねること。
そして、三つ目は摩天楼のそびえるマンハッタンの一人歩き。できればブロードウエイの劇場で本場のミュージカルも見ることが出来たら、また超高層のエンパイアステートビルの展望台にも上りたい。これらは、すべてかなえられた。神の守りがあったからである。日本のアルプスの山々も一人歩き。ニューヨークのマンハッタンも一人歩き。ひどい時差ボケに悩まされたにもかかわらず道を間違えることもなく地図を見ながら目的地にたどり着けたのはマンハッタンの町の造り方のためと思われる。
 摩天楼がそびえ立ち昼間でも暗いマンハッタンは碁盤の目のように造られている。南北に街と名のつく道が走り、東西は何丁目となる。例えば5番街の42丁目という具合である。北に行けば数が増え南に下れば減る。南から北に向かいダウンタウン、ミッドタウン、アップタウンとなる。分かりやすい。5番街の西側に行けば6番街、7番街と12番街まで数が増え12の先は海。東側に行くと一番街まで数が減りその先は海。途中にマジソン街とかレキシントン街など名前の付く道もある。いずれにしても分かりやすい街づくりである。それで目的地を間違えず一人歩きができた。
 旅の目的の一番目は、以前から願っていたユニオン日本語教会の30周年記念感謝礼拝への出席である。教団派遣の宣教師としてこの教会で伝道している上田容功牧師とは支援する会の代表を務める関係である。前回、記した入口のドアーを手で押して入るグランドセントラル駅から教会があるハーツデールの駅まで各駅停車の電車にのり約一時間。教会はその駅からすぐ近い。無人駅でホームにおり階段を上ると出口が二方向に分かれる。
日本の駅のように東口とか西口などと書かれていない。不親切と言えば不親切。どうぞ勝手に降りる人は好きな方に降りてくださいと言わんばかりである。しかも階段が鉄の剥き出しになっている。まるで工事現場。教会は独自の会堂を持っていないので大きな会堂をもつているヒッチコック長老教会の一部屋を借りて毎週礼拝を守っている。教会員は2名。毎週の礼拝出席は3名か4名と聞く。東北教区内の諸教会を思い起こす。創立されたのは30年前の1989年。バブルの時代で日本の企業から駐在という社員がニューヨークへ多く来ていたそうである。今は会社からの派遣の様子も変わっている。しかし、母国語の日本語で讃美歌を歌い、日本語の説教を聞くことのできる教会はニューヨークで今もその存在の意味を失っていない。
 二番目のホーイの母校、ランカスター神学校へはペンシルバアニア駅からアムトラックという列車に乗車した。アメリカへ行ったら大陸横断鉄道には乗れないにしても列車の旅をしてみたいと願っていた。片道、約二時間半の列車の旅の中で車窓の景色を見ながら上田宣教師から教会の実状をゆっくり聞くことが出来た。
 マンハッタン一人旅は書きたいことが多くて迷う。宿泊したホテルの近くに「あずさ」という名前の日本食レストランがあった。夕食ですき焼きを注文すると汁の入った鉄なべの中にすでにうどんが入っている。ご飯とサラダもつく。とても全部食べきれない量である。さすがアメリカでありなんでも量が多い。ブロードウエイでミュージカルも見ることができた。ライオンキングである。そして無事に一人で日本に帰って来た。

「ニューヨークへ一人旅」① 2019/11月号 月報より

1990年3月末に東京の西の郊外の教会へ富山から転任した。その年の夏に新宿駅で中央線から降りた際、網棚に手提げのかばんを置き忘れた。電車を降りてドアーが閉められたと同時に気づいた。
駅員に依頼し次の停車駅で捜してもらうよう手立てを尽くしたが出てこなかった。普段持ち歩いている大切なものを一瞬のうちに失った。それ以来、電車の網棚にはなにも置かない。かばんに入っていたのは財布に入れた現金だけではなく教会から預かっている封筒に入れた現金や手帳やモンブランの万年筆も車のキーも家の玄関のキーも失くした。幸いにして運転免許証は車の中にあり無事だった。
人間は懲りないものである。30年近くなってまた同じように大切なものを置き忘れた。場所は新宿駅ではなく、アメリカのニューヨーク。電車の網棚ではなく宿泊していたホテルのトイレ。手提げかばんではなく二つ持っていたもう片方の財布である。そして、今回は帰国する日で気が緩んだのかホテル一階のトイレを使って後にかなり時間が過ぎてから気づいた。
あわてて戻ったがあるはずはない。気づいたのは降りた新宿駅の電車ホームではなくケネディ国際空港行の高速バス乗り場である。
幸いだったのは運転免許証については必要ないと思い、持っていかなかったし、カード類も使えないものは持っていかなかったので失くさないで済んだ。飛行機の羽田到着は夜で、もともとその日に福島に帰れない。空港近くのホテルは予約してあるが代金を現金で支払うお金が無い。諸々のカードも失くした財布の中にありカード払いはできない。
東京に住む息子が夜の羽田まで来てくれ助けてくれた。親父にあんなに感謝されたのは人生初めてだとは、あくまで本人の言葉である。
さて、そのように日本に帰国する日にお金とカードの入った財布を失ったが、今回のニューヨーク一人旅で得たものはお金では買えない。今回、アメリカは初めての入国だった。海外への旅を数えてみたが世界の国で14番目に訪ねた国になる。そんな中でまずアメリカで驚いたこと。
地下鉄を早朝に何回か利用した。乗っている人が英語を話していない。何語か分からない言語である。おそらくスペイン語かポルトガル語ではないか。これは日本で考えられるだろうか。地下鉄に乗っている人が早朝であれ夜中であれ昼間であれ日本語を話していない状態はない。
しかしニューヨークではある。キップを買うための自動販売機には英語での案内表記とは別に他の国の言語の案内があった。『地球の歩き方』などの本には主要な駅には日本語の案内もあると記されている。しかし、実際はニューヨークの中心の駅のグランドセントラル駅でさえ日本語で案内をする自動販売機はなかった。そのグランドセントラル駅にも驚いた。
駅の入り口は手で押して入るドアーだ。東京駅を思い浮かべた。丸の内口でも八重洲口でも駅の入り口にドアーなどない。改札口を出ればそのまま外である。もし公共の施設の建物にドアーがあるとすれば自動だろう。ニューヨークでは建物だけではないと思われるが不便なものであっても壊さないで人間が辛抱して古いものを残して生活している。
ランカスター神学校の学長室の柱時計も古いものが置いてあった。ウイーンのオペラ劇場に入った時に最上階の六階まで階段を上がらされたのを思い出す。エレベイターもエースカレーターもない。古い建物をそのまま使っている。アメリカもヨーロッパもそのような文化である。
9、11同時多発テロ事件の現場を訪ねた。テロで倒壊した世界貿易センタービルが建っていた場所である。グランドゼロと呼ばれマンハッタンの南端にある。亡くなられた方々の名前が刻まれている石に囲まれている場所の下が深く掘られた正方形のプールになっていて、たえず水が流れている。世界が本当の意味で平和であるようにプールの前に佇みながら神に祈った。

近況および所感 2019/10月号 月報より

   8月最後の主日礼拝は夏期伝道実習に来ていた東京神学大学の早川神学生が礼拝説教を担当した。
それで助けられた。当日は説教できる体調でなかったからである。後日、かかりつけの医師からは「熱中症」と診断された。
医師の話しではそのような症状が出ると「熱中症もかなり進んだ段階です」とのことである。土曜日の夕食はとれなかった。そして日曜日の朝になっても良くならず食事も全く食べられなかったのに朝から黄色の胃液を何度も吐いた。頭はふらつくし気持ちは悪いし吐き気はするし苦しかった。礼拝後に休日当番医の医師に点滴をしてもらい助けられたとの思いである。高齢者が夏に熱中症で死亡するのは他人事でない。自分も正真正銘の高齢者だからである。
8月末の誕生日で72歳になった。医師によれば若い人でも熱中症になるという。
  振り返ってみると土曜日の午後にいつもより長めの散歩に出た。普段の散歩で一度も立ち寄ったことのない県立図書館の中に入りどの程度の本が揃えてあるのかを調べてみたりした。図書館の帰り飯坂線の駅から福島駅まで電車に乗らないで教会までわざと遠回りをして戻ってきた。それから横になって急に具合が悪くなった。
あの変化は今までに覚えのないようなものだった。散歩ですこし疲れた感じがして横になったのだが起き上がろうとしたところで頭がふらついた。立ち上がれない。これは駄目だと思い血圧を測ると上が182で下が101だった。こんな数字はいままでに見たことがない。夕食をとらず風呂にも入らないで眠ってしまえば翌朝には良くなっていると判断したが甘い考えだった。熱中症によってひどい脱水症状になっていた。
  42年目になる牧師としての歩みの中で日曜日に体調が悪かったことが何度かある。急に悪くなったこともあり、また以前から悪くなっていて日曜日にさらに悪くなったこともある。仙台の教会にいた時に金曜日の朝に起き上がろうとしたとたんに「ぎっくり腰」になった。二階から一階へ下る階段を一歩一歩降りながら腰に鉄板を置かれている痛みと重さを感じた。これでわが人生も終わりかなと思った。腰痛のひどい状態である。近くの整形外科までなんとか歩いていき電気をあててもらったり引っ張ってもらったり注射をしてもらったり腰痛のベルトをいただいたり、薬を出してもらったりいろいろの手立てを尽くしたがすぐには良くならなかった。そして日曜日の朝がきた。讃美歌を歌うときに立ったり座ったりはできない。説教する時だけ立つことにした。なんとかかろうじて最後まで務めを果たせた。幸いにしてその後「ぎっくり腰」にはならない。
  牧師は日曜日だけ仕事をしていればいいので楽なものだとある牧師の就任式の祝辞で述べた人がいる。認識不足である。日曜日に急に具合が悪くなったとしても牧師は他の誰かに代わってもらうことのできない務めを担っている。説教の完全原稿をつくっておいて講壇で倒れたら続きを他の人に読んでもらうようにしていると真面目に言う人もいるが果たしてそれでよいのだろうか。疑問が残る。その人がそこにいて語るから意味を持つこともある。旧約の列王記上の最初は次のように始まる。「ダビデ王は多くの日を重ねて老人になり、衣を何枚も着せられても暖まらなかった」(1章1節)聖書に老人問題が触れられていないなどと言う人は旧約を読んでいない。旧約は人間が年を重ねることがどういうことをもたらすのかを見つめている。私も今回「熱中症」と言われて自分もいよいよ老いて熱中症になるのだと知らされた。毎日、朝起きた時に今日も絶好調とは言えないかもしれない。それが今の自分の平常の健康であると思うことにしている。
「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6章34節)